裏磐梯の発展のあゆみを今に伝える貴重な資料

 裏磐梯エコツーリズム協会の活動もみなし法人時代を含めると13年を数えております。その間に協会広報誌の「磐梯の宝人(たからびと)」コーナー取材などを通して、裏磐梯とともに歩んできた達人たちから「むかし」のお話をたくさん伺いながら、それら貴重な記録をより多くの地域の皆様と共有できたらどんなに素晴らしいだろうと常々考えておりました。

 昨年、故・阿部國男さん(小学校教員を長く務める傍ら、自宅を一部開放し学童のための地域図書館「裏磐梯ひまわり図書館」を運営。また村郷土史研究会の会員として、桧原裏磐梯の歴史や文化に関する文章を多数執筆し発表されていた宝人のお一人)のご子息である孝男さんから「父の遺した原稿や資料の類を一度見てもらえないか」とのお話をいただいて、段ボール数箱分にもなる原稿や資料をいったんお預かりすることとなり、改めて國男さんの書かれた文章に目を通す機会を得ました。また、村の「最後の木地師」のお一人であった故・大竹繁さんのご子息の栄一さんからは、特定外来種コカナダモの駆除活動をご一緒させていただいた折に繁さんの遺した貴重な生活記録を特別に見せていただくこともできました。

 それらは、前会長の伊藤と裏磐梯における黎明期のエコツーリズム活動について一度まとめておこうかと話し合っていたタイミングでの出来事でしたので、この機に、裏磐梯発展のあゆみをつづったアーカイブを作成することといたしました。

 裏磐梯の電話のはじめて、ワカサギ釣りはいつからか、昭和の裏磐梯の日常風景、地名の縁起について私がおじいちゃんから聞いたはなし、などなど、ススキとカヤとハンノキとヤナギの原っぱが日本を代表する観光地になるまでの間に起こったたくさんの出来事を伝える生の声をどうぞお楽しみください。

2021年3月

NPO法人 裏磐梯エコツーリズム協会会長  眞野 眞理子

昭和28年の剣ヶ峯交差点は原野だった(写真提供:小池敏男氏)