著名人のむかし語り(曽原開墾のころ)
石黒 敬七(いしぐろ けいしち) 1897ー1974
柔道家。NHKラジオ第一放送の「とんち教室」の回答者として「石黒旦那」の愛称で人気を博した。
以下に、北塩原村郷土史研究会報「峠のみち」第10号(H8発行)に掲載された鈴木圭長氏の記事「とんちン館と曽原開墾」からの抄録を掲載します。大正時代の裏磐梯が描写されています。
とんちン館と曽原開墾
鈴木 圭長
北陸自動車道を南に下って米山サービスエリアで「とんちン館」という妙な名前のポスターが目についたので面白半分に立ち寄ってみた。
それは柏崎市出身の石黒敬七氏が、日本中はもとよりヨーロッパ各地から集めた珍品と言ったらよいか、ガラクタ品の展示館である。石黒敬七と言うと、戦後間もなくNHKラジオ番組の「とんち教室」でそのユーモアぶりは有名で知らぬ人もないであろうが、私は、別に子供の頃の思い出があるのである。それは、小学五年生の頃であったろうか―石黒敬七の名は柔道の先生で有名な人とだけ知って居た―その頃、雑誌『少年倶楽部』で夏の涼み台の話の様な、納涼座談会が載っていた。(中略)彼が学生時代数人の友人と福島県桧原村の曽原開墾(現・北塩原村大字桧原字曽原)に行った時、荒れた地の果てのような処で日が暮れて困ったので、とある一軒の農家に宿を求めた。そこに居たのは婆さんが一人だけと言うのであるが、何もないから泊まるだけならと言うことで泊めてもらうことになった。婆さんは夜中に奥の部屋に行ってローソクの明かりで何やらゴソゴソやっていたが間もなく出て来て、皆で一晩囲炉裏端で休んだ。翌朝早く婆さんが「ちょっと用事で行って来るが、すぐに帰って来るから」と言った。そして「奥の部屋には行ってはならん」と念を押された。ならんと言われると見たいのが人情で、友人とそっと覗いてみてびっくり、そこには死人が寝かしてあるではないか、一同は驚いて口もきけないで寒気がしてきた。悪いものを見てしまったという罪悪感もあり、どうしたものかと思ったが、とにかく知らぬふりをきめこんで居るしかないと言うことになった。そこへ婆さんが帰って来た。婆さんは皆の様子で気が付いた。「奥の部屋を見たな」と言った。一同黙っている。一言もないのだ。そこで婆さんの話では死人は私の主人で数日前に死んだが人手がなく葬式も出来ないで居る処だ。今日これからここの開墾の人達が数人来て埋葬をすることになっているから皆は早く立ち去りなさい、と言うことになった。
以上が納涼座談会の一部である。この記事を見て私は当時子供心に(近隣の村のことでもあり)死人という異常事でたいへんショックを受けたものだ。それで父に「曽原開墾」というのはどのへんか、と聞いてみた処「磐梯原」の向こうの端だとのことであった。(中略)当時のことを思い出して見ると「裏磐梯」という名称は普通に使われていなかったし、このへん(当時の大塩村、現・北塩原村大字大塩)では俗に「磐梯原」と呼んで居た。それはその名の通り、檜原湖の向う側は噴火で押し出されて来た土と石の堆積した土地で草も生えてなかった。10センチくらいの小さな松が石の陰あたり一面に生えて居て、その松も伸びる形をしてなく生きてるだけの姿であり、まさに「磐梯原」と呼ばれる一面の赤土と石ばかりの荒れ地でまったくの別天地であった。「曽原湖」という名前はあったように思うので、そうだとすれば「曽原開墾」とはあのへんであろうかとも思われる。(中略)とんちン館の石黒敬七メモによると「大正十三年に渡欧し昭和八年に帰国」とあるから(中略)この曽原開墾の話の出た納涼座談会は渡欧の前年の大正十二年と推察すると、私の記憶による小学五年生とは符合することになる。(後略)
(『峠のみち』第10号「とんちン館と曽原開墾」より抄録)
曽原の開拓は明治の磐梯山噴火の直後から行われていたようですが、困難をきわめたようです。そのときの苦労話や調査記録は、年代記の別項に掲載の「開拓民が語った裏磐梯開拓史」や「戦後の曽原の発展(曽原開拓のころ)」をご覧いただければと思います。また、圭長さんは本文を「学生・石黒敬七らの泊まった家はどのへんであろうか等と知りたいことは沢山あるが、私はあの磐梯原という石ばかりの荒涼たる地に開拓を挑んだ曽原開墾の人達に心からの敬意を表したいし、更には今の裏磐梯の盛況を見せたいものと思うのである」と結んでおられますが、まさしくそういうことなんだろうと強く印象に残りました。