猪苗代駅前からの森林鉄道①②

新井 徹

猪苗代駅前からの森林鉄道①

 噴火後の裏磐梯における開発事業は、明治後期の富国強兵の旗印のもと、農林事業・電力事業を下支えする産業の一端を担うことになりました。主に「営林事業」と「発電事業(貯水事業)」が、大正から昭和初期の裏磐梯に大きな影響をもたらしました。

➀営林事業
猪苗代駅前から吾妻山山麓へトロッコ軌道を敷設し、建築資材、土木資材、薪炭などに活用するためにブナ材を始めとする広葉樹を伐採して搬出する事業を始めました。

➁発電事業(貯水事業)
 首都東京への電力供給のために猪苗代に発電所が作られ、実際に送電を開始したのは大正4年(1915)でした。しかし猪苗代湖の水はすでに、安積疏水や戸の口堰など、灌漑用水として使用されていたため、不測の水不足を避けるため、裏磐梯の檜原湖をはじめとする三湖の水は緊急時用の貯水湖としての役目を担うことになりました。大正12~14年にかけて秋元湖の堰堤が作られ、順次小野川湖や檜原湖にサイフォン付きの水門や隧道・水路・堰堤などが作られました。昭和に入ってからも中津川の水利用のための隧道などもつくられ、今とは違った賑わいをもたらしました(参考 秋元湖岸の小野川発電所の完成は昭和12年(1937)です)

 貯水事業については文書や写真も沢山ありますが、営林事業については営林署(森林管理署)にもほとんど資料がないこともあり、今回、裏磐梯地区にあったトロッコ軌道について調査いたしました(注1)

 磐梯山の噴火から37年後、前橋営林局猪苗代営林署は大正14年(1925)に猪苗代駅前から、小野川の奥深い場所までの森林鉄道を開通させました。(24キロメートル)日清、日露の戦役にも勝利し、国力増強の時期に、建築資材としての木材、国民生活に欠かせない薪炭、当時軍事的な意味が大きかった鉄道敷設に必要な枕木などの供給源として吾妻山の山麓に総延長は40キロにも及ぶと思われる軌道を敷設しました。
 そして猪苗代の駅から、大正2年には全線開通していた磐越西線を経由して全国へ運ばれて行きました。いつのころから人間も乗れるようになったのかは分かりませんが、この軌道はそれまでの町へ出るための徒歩や馬車、馬そりに限られていた交通手段にとって代わるものとして昔からの住民にとっても非常にありがたいものであったと思われます。

 大正14年(1925)から始まった山からの製品輸送は、猪苗代からの上りは空のトロッコを馬で引き揚げ、製品を満載して手ブレーキを使って駅まで下りました。メインとなった小野川湖のラインは、不動滝の前を通り「コブナラ」と言われていた現在のグランデコスキー場のあたりを終点とする線と小冷水沢(こひやみずざわ)の奥へ伸びる線とあり、小冷水沢の奥山に小野川斫伐(しゃくばつ)事業所(第一官行と呼ばれた)を設置しました。山中には「エンクラ」と呼んでいたインクライン(注2)もありました。
 その後大沢線や狐鷹森線を延長し曽原事業所(第二官行)を設置しました。
 昭和2年ころにはガソリン機関車を購入して機動力を高めましたがトロッコによる搬出は、雪のない5月下旬から10月下旬に限られました。
 猪苗代と裏磐梯の中継点にあたる川上にはそれまであった簡易製材所が本格的な木材工場になり官行事業終了後も昭和48年(1973)まで営業しました。
 しかし昭和20年(1945)の戦争終結後は急速に道路整備が進むと同時にトラックによる輸送力がアップして、昭和24年(1949)には製品の輸送は全面的にトラック輸送に移行され、裏磐梯地区のトロッコ軌道は全面的に撤去されました。猪苗代駅前から川上までのトロッコ軌道は、それより早く昭和10年(1935)に廃止されています。
 その後も製品輸送は続けられましたが、ブナ材の枯渇などの理由により昭和44年(1969)に事業の一切を終了することになり、11月29日に終山式を行い44年の歴史に幕を閉じました。

1  軌道のルート

 猪苗代駅前から街中(正確なルート図があります)を通り、県道2号線に沿う形で川上まで上がります。川上までは平均的な勾配で上れましたが、ここからは少し急な崖があるので「さわや旅館」の少し上の所から磐梯山側に上り、大きくカーブして「磐惣」の敷地内を通り、毘沙門沼からの川のそばにある小高い丘の切り通しに出ます。ビジターセンター側をたどり「やまざきショップ」あたりで、ガソリンスタンド側へ渡ります。ここから、環境省の建物の裏へ進み小野川湖を右に見て斜め前の切り通しを進むと新川を渡り「森林管理署」に突き当たります。
 村道を横断して「シャレー裏磐梯」の裏で大きく右へカーブし丘の中腹を「斎藤食品」の方へ左カーブして「中川食品」側へ曲がり「落合さん」の方へ入ります。その先「赤べこ」の中を抜けて「休暇村キャンプ場」の奥を通り「小野川北岸遊歩道」の入り口につながります。
 このあたりが、小野川の奥へ行く線と簗部大沢の線、狐鷹森曽原湖の奥へ続く線との分岐になります。小野川湖の奥へは、「小野川湖北岸遊歩道」がそのまま軌道敷です。小冷水沢の奥まで続きます。
 簗部大沢線は村道をそのまままっすぐ進み細かいカーブをつないで大沢の奥へ行きます。他の線に比べると距離はありません。狐鷹森曽原湖へは、村道を100メートルくらい進んだところから休暇村敷地内に入り大きな切通しを抜けて直線的に「さざなみ荘」に向かいます。「さざなみ荘」から村道沿いに進み、曽原湖遊歩道の入り口に進みますここにも分岐があり、檜原湖側の築堤の線は上を通って「こたかもり荘」まで行っていました。湖上船との連絡ができたものと思われます。
 一方曽原湖遊歩道へ進んだ方は神社まえの切り通しを通りカーブを何度か繰り返し遊歩道の終点で下の道へ下りずに左の方へ進みます。この先は山肌を縫うようにレイクウッドの奥深くまで長く伸びています。
 中津川の方には幹線につながらない独立した線が議場(ぎば)から中津川上流に向かって伸びています。議場に事業所を設置してここからトラックで製品を搬出しました。全体として総延長はおそらく40キロメートルを超えるのではと思われます。  

森林軌道 裏磐梯

2  遺構

 事業が終了してから間もなく50年になろうとしており、その痕跡は非常に少なくなっています。それでもその気になって探すといろいろ見つかります。雪の降り始めや春の雪解けの頃がわかりやすいです。軌道敷、切通し、築堤、橋脚など地図に示しました。

軌道敷夏は低木や雑草によって覆われているが意外に見つけやすい、しかし根曲竹が繁茂していると中へ入り込めない(さざなみ荘から佐藤さん宅、森林管理署から斎藤食品工場、赤べこから休暇村キャンプ場) 
遊歩道の一部として使用されているところもあります(曽原湖一周遊歩道小野川湖北岸遊歩道、不動滝への遊歩道)
切通し人工的に作られたものなので、わかりやすい(諸橋美術館前、剣ヶ峰神社裏、ベイクドポテト裏)
築堤狐鷹森県道2号沿いに良くわかるものが残っています(民宿山湖荘前)
休暇村キャンプ場の奥に小さいものが数百メートル残っていて村の水道管が埋設されています。
橋脚コケや土に覆われていますが大小あります(小野川不動滝前、グランデコ遊歩道、休暇村キャンプ場、など)
隧道小野川北岸遊歩道の終点あたりですが土にうもれて分からない(確認出来ていない)

3  暮らしとの関係

 猪苗代と裏磐梯を結ぶ唯一の道路として、山からは製品が搬出され、それに伴い町からは食料品や生活用品が届けられました。更に人の交流も活発化し、山の人々の生活に大きな影響を与えたことは、大きかったと思われます。山奥での仕事は、家族ぐるみで山に住み込むことになるので、第一・第二官行合わせて約60世帯の人々が生活をしていました。
 当然子供たちも沢山いたので、両官行ともに山の分教場が開かれていました。これが後にそれぞれ桧原小学校の小野川分校と曽原分校になったのです。

注1山に住む人々の生活に多大な貢献をしたと思われるトロッコ軌道であるが、完全な国営事業であったためだろうか、自治体側の記録は驚くほど少なく、『猪苗代町史』で半ページ程度、『北塩原村史』では集落の紹介の中で触れられている程度です。トロッコ軌道敷の所有者であった営林署(現在の森林管理署)にも、残念ながら公式の記録誌はないということでした。
注2 斜面を昇降させる機械装置

猪苗代駅前からの森林鉄道②

 前回は裏磐梯地区の森林鉄道跡の報告をしましたが、今回は森林鉄道の出発地である猪苗代駅から川上温泉までの軌道跡について報告を致します。

1  概要

 吾妻山山麓の豊富な広葉樹・針葉樹を伐採し搬出するために、猪苗代駅から吾妻山の奥深くまで約24キロメートルの森林鉄道を大正14年(1925)に完成させました。
 この森林鉄道が開通する前は、木炭・薪・木材などは、吾妻山麓の小野川、秋元、議場(ぎば)から千貫(せんがん)を玄関口として搬出されていました。千貫からは馬車・馬そり・駄馬(注1)など使って名家(みょうけ)へ出て、さらに樋ノ口(ひのくち)駅(注2)へと搬出されていました。のちに名家への道の途中から三ツ屋への道が開かれ、ここから猪苗代駅(磐越西線は岩越線として郡山~喜多方間が開通していました)へも通じていました。これらの道は千貫から製品・素材の搬出の道であると同時に、山で生活する人々の食料や生活用品などを運ぶ重要なルートでもあったのです。
 日本硫黄株式会社には林業部があり、沼尻山で造林事業もしていました。裏磐梯地区へも事業の拡大を考えていたようで、大正の初めには樋ノ口から秋元を通り桧原湖畔までの馬車道が出来ていました。さらに名家から千貫(秋元湖畔)への軌道の延伸を考えていたようですが、第一次世界大戦後の世界的な不況により断念しています。

2  軌道ルートと遺構

 生活に欠かせない薪炭に加え建築用材や鉄道枕木の搬出用の森林鉄道のスタート地点は猪苗代駅前で、大正9年から始まった工事は猪苗代駅の北側、郡山寄りのところに9000平方メートルの土場(貯木場)を作ることでした。土場は高さ1.5メートルの高さに土盛りをする必要があり、亀ヶ城趾付近の土砂を運んで作ったようです。
 猪苗代駅前から川上温泉までの軌道跡は幸いなことに大体のルートをたどることが出来ます。猪苗代の町は、磐梯山噴火後は大規模な区画整理をしなければならないような災害がなかったため小さな路地もたどることが出来ます。裏磐梯地区のように明確な切通しや築堤、軌道跡などはないですが、川上までの全線を推定することが出来ます。
 駅前の土場は当時の痕跡を見ることはほとんどできませんが土場から旅館「新生」の裏に向かって斜めに突っ切り駅前からの大きい道路に出て、北に向かって進みます。ロータリークラブの大きな時計があるYの字交差点を斜め左に曲がり町の中央に進みます。六角橋の交差点を渡り斜め左に白成舎の敷地に入り、そのまま斜めに突っ切ります。
 町裏の四ツ谷サル川沿いに北上して、体育館に通じる道へでたら右折して、また本町通りに出て北上します。しばらく北上して西勝寺手前の十字路を右折して狭い道を50メートル行き、直ぐ左折して、裏磐梯への道にぶつかり右折します。まもなく県道2号線に出ますがここからはほぼ2号線が軌道の跡と考えてよいと思います。
 磐梯山の東麓の山襞を縫うように登っていきます。後年、道路の改良が行われ、急カーブを改良したところは約10か所くらい確認できます。待避所の形で残っており結構くねくねだったのだと気づかされます。さらに切通しも二か所ありますが、ちょっと気が付かないかも知れません(カーブの改良や切通しがいつごろから始めたのかは不明です)
 「ファミリースノーパークばんだい×2」(旧磐梯国際スキー場)の入口の少し手前の沢にかかる橋の山側に古いコンクリート製の橋脚がありますが、これが軌道があったころの遺構なのかトラック道路になってからの物なのかどうかは分かりません。
 川上温泉に近くなり旧「滝の湯」あたりで、磐梯山側の斜面を縫って現在の「山の駅」の裏を通って小野川の方へ登っていきます。
 「山の駅」の裏あたりで軌道は東側へ分岐して道路の下のテニスコートの方へ下り、ここに貯木場・機関庫・工場・事務所・倉庫などがあり拠点となっていました。
 現在、工場跡の所に大きいコンクリートの壁がありますが、この辺りでは唯一の遺構と言えます。現在、磐梯山側に工事用道路がありますが、奥の方に砂防ダムを作っているようでだんだん軌道の痕跡が消えていくのは寂しい限りです。
 川上からは「磐惣」の方へむかって斜に登っていく軌道跡が確認できます。

森林軌道 猪苗代
森林軌道 渋谷
森林軌道 川上

3  ガソリン機関車導入時期についての考察

 猪苗代駅前と川上温泉の間のトロッコは、大正14年(1925)に竣工して、昭和10年(1935)に撤去されるまでのわずか十年余りの寿命でした。その後、輸送はトラックに変わられましたが、裏磐梯地区では昭和24年(1949)までトロッコは使用されていました。
 当初は動力は人と馬で、空トロッコを馬で山へ引き上げ、荷を満載して人がブレーキを操作して山を下りました。その後、アウストロダイムラー社製の中古ガソリン機関車を導入したのですが、導入時期には諸説あり、阿部國男さんの資料では「昭和10年」とありますが、関東森林管理局のWEBの浪江林道についてのページには「昭和2年に2両を導入してそのうちの1両を猪苗代林道に使用した」とあります。猪苗代町の小林光子さんがお持ちの街中のトロッコの写真に「昭和7年」とありますので、「昭和2年」導入説のほうが、つじつまは合います。
 アウストロダイムラー社はオーストリアにあったドイツのダイムラー社の子会社的なものと思われ、得意のガソリンエンジンの機関車を製造しており、浪江林道は、この機関車を岐阜県の神岡軌道から中古品として購入したものと思われます。

4 むすび

 このトロッコ軌道は正式にどのような名称であったのか悩んでおります。猪苗代森林鉄道、森林軌道、トロッコ軌道、林道などなど。林野庁の森林鉄道の紹介では、猪苗代からのトロッコは「猪苗代林道」と記載されています。馬が主役の時、軌道を敷いて人や馬が引くトロッコの時、機関車が引く時、旅客を載せる時、などで呼び方が変わってくるようです。


注1荷を背につけ運ばせる馬
注2耶麻軌道(やまきどう)の駅。日本硫黄株式会社による鉄道路線(耶麻軌道のほか、沼尻軽便鉄道(ぬまじりけいべんてつどう)磐梯急行電鉄など、様々な名称で呼ばれていた)で、大正2年に川桁(かわげた)~大原(現在の沼尻)間が開通していた。

歴史年表

大正9年(1920)
前橋営林局猪苗代営林署の直轄事業として、広葉樹と針葉樹の伐採を行い素材(主にブナ材)を製品化する事業を開始した。そのため猪苗代駅前に9000平方メートルの貯木場(土場)を開設し、小野川までの24キロメートルの軌道工事に着手した。

大正14年(1925)
敷設工事が竣工し、素材の搬出を開始した。ただしトロッコによる搬出は5月下旬から10
月下旬までの雪のない時期に限られた。

大正15年(1926)
小野川斫伐(しゃくばつ)事業所(第一官行と呼ばれた)を、不動滝の前を通り「コブナラ」(現・グランデコスキー場)と言われたところに設置し、木炭・薪・鉄道枕木などの生産事業を開始した。

昭和2年(1927)
ガソリン機関車を導入した。(アウストロダイムラー社製)浪江林道はこの年ガソリン機関車を2両導入しそのうちの1両を猪苗代林道に使用した。

昭和5年(1930)
曽原事業所(第二官行)を設置  (?) 

昭和7年(1932)
剣ヶ峯を通る道路の開削始まる。

昭和10年(1935)
川上に簡易製材所と貯木場を開設。
川上から猪苗代間の軌道を廃止し、この間はトラックを使用することになる。
猪苗代からの裏磐梯観光道路開発始まる。

昭和15年(1940)
大沢線共用開始。
第2曽原官行事業所(簗部沢山南山麓)開始。
秋元湖岸林道工事始まるも、間もなく第2次世界大戦のため中断する。

昭和16年(1941)
曽原線(狐鷹森)共用開始。
第2曽原官行事業所(甚九郎山南山麓)開始。
川上の簡易製材所が、関東ぶな材工業川上工場(主にフローリング材の生産)となる。この工場は、官行事業終了4年後の昭和48年まで操業した。    

昭和23年(1948)
秋元湖岸林道(トラック輸送用)工事竣工する。
議場に中津川事業所を開設。
議場から中津川の上流に向かって左岸に軌道を設ける。

昭和24年(1949)
川上工場が付近の民家からの火災で延焼する(その後復活する)
中津川の軌道を議場から上流部を残して、軌道が廃止される。順次軌道が撤去され、全面的にトラック輸送に移行する。
裏磐梯のトロッコ軌道は、この年全面撤去された。

昭和28年(1953)
中津川斫伐事業所が中津川製品生産事業所と名称を変更する。
このころから、自動チェーンソーを使用する。

昭和35年(1960)
小野川製品事業所ができて中津川を小野川に戻す。

昭和42年(1967)
桧原製品事業所を開設し小野川を移設する。

昭和44年(1969)11月29日
製品事業所の一切を終了する終山式を桧原にて行い、49年の歴史の幕を閉じた。

*新井徹が資料を基に作成した(2018)

<参考資料>
「磐梯と猪苗代湖」田子健吉                   大正13年8月発行
「猪苗代町史」猪苗代町史編纂委員会               昭和54年3月発行
「磐梯山噴火百年記念誌」磐梯山噴火百周年記念事業協議会     昭和63年7月発行
「懐かしの沼尻軽便鉄道」懐かしの沼尻軽便鉄道編集委員会     平成12年2月発行
「続 懐かしの沼尻軽便鉄道」続 懐かしの沼尻軽便鉄道編集委員会 平成13年4月発行
「裏磐梯」国立公園指定50周年記念誌編纂実行委員会       平成13年7月発行
「北塩原村史」北塩原村史編纂委員会               平成19年10月発行
地元の郷土史家、阿部國男氏・渡部新一氏の調査資料

<その他、提供いただいた図版>
「猪苗代街中を通るアウストロダイムラー機関車」の古写真   猪苗代町・小林 光子さん