裏磐梯の地名

阿部 國男(久仁於)

 「剣ヶ峯」は広い区画を指し、「吐出」とは小野川湖の水門のあたりをいう。「剣ヶ峯」とは、噴火前の地形で鋭く尖った峯があった、と本で読んだ記憶があるがはっきりしない。
 「吐出」とは、いつの頃から名づけられたのであろうか。今も息づいている地名(注1)である。蛇平の小椋武さんによると、「吐出」は噴火後の地名で、祖父・鹿三郎に「噴火後のこと、小野川湖の水は(度々)溢れていた。いつドッと流れ出るかと心配していると、弱い地盤が破れ(湖水が吐き出されて)下流に二次災害をもたらした」とよく聞かされていたということであった。長い間東電勤務をされた後藤寿さんは「木流し口があってなー」とポッと話された。東電の水門工事で「木流し口」とは、地域住民が切り出した薪(燃料の薪用に山から伐りだした丸太)をここから一本ずつ水に吐き出して、川に浮かせて下流の猪苗代町に流していたとのこと。(推測するに)剣ヶ峯に東電のサイホン・ダムができて(今度は)ダムから水を吐き出したことから「吐出」の地名が生まれたのだ、と言うのであった。

 「蛇平」は、噴火前に名付けられていたという。山頂から見る一帯が、ヘビの形をしたような沢が走っていたことから「ヘビ沢」と呼ばれていたという。また一説によると「親子熊がおって、草をなぎ倒しながら歩いた跡の様子を大蛇が通ったものと思ったから名付けられた」(小椋 武 談)ともいう。

 『きたしおばらむら 二十周年記念誌』に「(昭和二十九年に)曽原を分割し、曽原部落および狐鷹森部落となる」とあるが、地名としての「こたかもり」については、『昔、伊達政宗が軍勢を引き連れて猪苗代に向かい、細野原(ほそのはら)の東を三日三晩歩いたが、遂に(猪苗代に)出られなかった。歩いたところをよく見ると、狐にたぶらかされて同じ山の麓を回っていたとわかり、米沢へ引き返したと言われている。それで、小高い山の「高鷹森」を以来「狐鷹森」と呼ぶようになった(山田信夫の祖父、末吉談)』(『会津の峠 上』 会津史学会編 歴史春秋社)や『磐梯山登山案内図』(会津若松市鈴木屋書店発行、発行年不明)の中に「狐高森」とあるのを見つけた。大堀幸一さんの話によると「(昭和十年ころ)湖上運搬が盛んであったころの狐鷹森は、荷の集積場として「曽原舟付」と言われてそれは賑わった。檜原から和船で木地・薪炭などを運び、猪苗代から生活必需品・日用品が入る。トラックが早稲沢へ入るようになるにつれ、次第に船での運送はすたれた」ということであった。

「トンボ研究をされている大沢尚之先生(茨城県清真学園高校)がオオイトトンボを「人形の家(注2)」の近くの池で採取した。池にはまだ名がなかったので、採取地を「人形の池」とし、標本にして学会に報告し海外にも送られた。(いったん地名として活字になってそれが定着してしまう例として)ほかに「甲府沼(注3)」はもともと「工夫沼」だし「父沼」と「母沼」(注4)を取り違えている地図がある」(冨田國男さんの談話)

(郷土史研究会会報第3号「地名アラカルト」阿部國男より抄録)

注1国道459線と猫魔スキー場入り口の分岐のところにある道路標識には「吐出」の表記が今も残る。
注2吐出の交差点(北塩原村・剣ヶ峯のセブンイレブン前の交差点)近くにあった繁盛店(森の中の喫茶店)だが、現在は営業していない。
注3北塩原村・秋元集落の入り口の沼
注4五色沼湖沼群の探勝路のはずれ(物産館側)にある沼
吐出(はきだし)の地名