裏磐梯はジュンサイの里

阿部 國男(久仁於)

 ここが開拓地であったと思えない変わりようである。クリーピングタイムにラベンダーなど色とりどりのハーブを栽培し収穫に忙しい人々。箱舟でジュンサイ(注1)を摘む風情は夏の風物詩であり、近年電波に乗り報道されてきた。
 磐梯山噴火五年後にして入植し「曽原開墾」として開田した人々は、寒冷地とあってわずかの収穫しかなく、風冷害などで大正の中頃離農したと記録されている(注2)
 戦後における開拓は昭和二十一年に始まる。曽原第一、曽原第二と蛇平(へびだいら)であった。磐梯山麓開拓の記録によると「戦後における農林省開拓局は、戦後の復員の過剰人口の収容と食料の増産を目指し」開拓農家に土地を利用させたのである。 
 磐梯山をとりまく開拓地は十数か所数えられる。いずれも不毛の土地への開拓として始まり、今日の美田になるまでの四十年余りは貧困に耐え忍ぶ日々であった。すべて一鍬ごとの掘り起こし作業の連続であり、現金収入を得るため、山仕事、薪つくり、炭焼き、萱刈り、木地の荒型つくりなども手がけた。開田できた土地からわずかの新米の収穫があった時、生きてた喜びを感じたし希望が与えられたという。
 曽原湖を中心に自生していた沼のジュンサイは農家にとっての副収入源であったが、草魚によりジュンサイが減少し収穫が落ちた(注3)そのため水田を沼に造成しジュンサイを栽培したのである。その後、村の水田利用再編対策が始まった昭和五十三年からは、栽培農家も増えてハーブと共に収益を上げるのである。
 耐え忍んで四十年。実りある開拓地として有望視される地域となった。
(『北塩原村商工会会報』阿部國男「ロマンを求めてシリーズ⑮曽原開拓の今昔」全文)

 ジュンサイ栽培に成功しつつある曽原開拓農家の展望は明るい。戦後に入植し苦難の道を歩んできたが、いくつかの障害を乗り越え工夫と努力により今日あるジュンサイ栽培農家として注目されるようになった。当初は開田して稲作に専念したが、標高八百メートルの寒冷地とあって米は苦労した割に収穫が少なかった。
 曽原湖周辺には天然ジュンサイが自生して、開拓農家の副収入源であった。昭和三十五年、有志による人工ジュンサイ栽培を曽原湖と鯉沼(こいぬま)の一部に試み、見事に成功した(注4)しかし昭和四十五年曽原湖に草魚(ソウギョ)を放流したこと(注5)から、食い荒らされて収穫が減った。「天然ジュンサイが駄目なら水田利用の栽培は」と試みる農家の試験的転作も成功し、将来有望であると自信を持った。
 減反政策も農家にとって転機であった。水田利用のジュンサイ栽培に踏み切り、収益も上向き始める。昭和五十三年からの水田利用再編対策による人工沼の造成(注6)は着々と進み、ジュンサイ沼は約十ヘクタール(ジュンサイの自生する自然沼は五ヘクタール)と面積も増え、生産高も八~十トンの収穫が見込まれてきた。
 昭和五十八年から「木地師とジュンサイの里」の村おこし(注7)に村や商工会が力を入れ、ジュンサイ料理の提供、特産品として販路の拡大などを図り、一アールあたりの生産高は四百~六百キロ、粗収入は三十二万~四十八万が見込まれるようになってきた。
 女の採り子で、一日、一万五千円~二万円分ほどのジュンサイの芽を摘むという。村や商工会による指導と裏磐梯に二つある加工工場の技術援助が功を奏している。
 裏磐梯の風物詩ジュンサイ摘みは、開拓農家の努力に報いようとしている。いま、緑のダイヤ(注8)「栽培ジュンサイ」は光り輝き出すのである。
(『北塩原村商工会会報』阿部國男「ロマンを求めてシリーズ⑯曽原開拓の今昔」全文)

 毎年七月頃、「夏の風物詩、裏磐梯にジュンサイを摘む」風景がテレビで放映されて久しい。緑のダイヤとしてのジュンサイが光り輝き、開拓の人々の生活を支えながら長い歳月幾多の困難を乗り越え共に扶け合ってきた。
 自然沼に自生するジュンサイに着目した人々は山菜加工工場を始めたが、戦時中の塩不足に、加工を中止せざるを得なかった。その後、「中川食品工業」の中川武雄氏は昭和二十七年に父・新吉氏(注9)の跡を継ぐ。また、斎藤敏男氏は昭和四十年、山菜加工工場「斎藤食品工業」を創業した。現在は曽原十二戸、狐鷹森十二戸のジュンサイ栽培農家へ指導助言をして、地域全体に貢献しているのである。
 採り子によるジュンサイ採取の方法も時代とともに移りかわりを見せるのである。
 かつて採り子であった老婆は「今考えてみると幼稚なもので…」と前置きして語ってくれた。「はじめは土手から沼のジュンサイを鎌で手繰り寄せ新芽を摘んだ。摘むのに沼へも入った。子持ちの親は子を背負って沼に入った。沼から上がると、いつのまに入ったかヒルに血を吸われていた。一升壜を片手に持ち、ジュンサイを入れる。時には沼に落とすこともあって、沼に沈んだ壜から水を出すと今まで摘んだジュンサイまで流れ出た」
 豊富にあるジュンサイを多く収穫するのに、タライに乗って採った。タライはよく転倒した。それでも男がタライに乗り、鎌でジュンサイを刈る。陸に運んで、女が芽を摘んだ。(このやり方だと)三年もしたらその沼は駄目になった。
 箱船での採取(注10)ができるまでに、人々はそれなりの工夫を試みた。先進地での箱船による採取方法(注11)を知った。地元の大工さんは箱船の注文を多く受け、相当数作ったという。ジュンサイの採取には便利になったが、箱船のジュンサイ沼までの運搬は女の採り子にとっては過酷な労働であった。中川氏によると、昭和三十三年頃、車(自動車)で箱船を沼まで運び始めたということであった。
 ジュンサイ栽培地の造成も年々改善され、開拓農家の多収穫と高収入を目指し、村も農業委員会も指導をし、開拓農家は活気づくのである。
(『北塩原村商工会会報』阿部國男「ロマンを求めてシリーズ⑰曽原開拓の今昔」全文)

注1スイレンなどの仲間で、葉を水面にうかべる水草。水中の新芽(若い葉)とそれを保護するヌルヌルした分泌物が可食部で、淡白な味とツルンとした舌触りが珍重される高級食材。六~八月が採取時期。
注2明治四十一年測図の五万分の一地形図に「曽原開墾」の地名表記がある(『磐梯山・猪苗代の地学』(社団法人東京地学協会・刊)「磐梯山噴火後における裏磐梯の土地利用変化」大澤貞一)また、『裏磐梯の開拓と観光』(平山弘道・著)には「明治二十六年頃、若松の有志三十六戸が曽原に入植し、開田を始める」との記述がみられます。
注3諸説あるが、この年に会津バスが曽原湖での養殖を企図して育てていた草魚が囲いを破って曽原湖全域で大繁殖してしまったらしい。
注4中川新吉氏らが取り組み、曽原湖周辺湖沼でのジュンサイ増産を成功させた。草魚による食害で曽原湖のジュンサイが大きな被害を受けた昭和四十五年には、中川武雄氏を中心に大森民衛氏、佐藤博氏らの協力で、休耕田を沼地に改良しての人工栽培に取り組み、成功した(『裏磐梯・北塩原の民俗』)
注5詳細は注3に。
注6水稲耕作の田圃を深堀りして沼地化し、「ジュンサイ沼」圃場とした。
注7昭和五十八(1983)年、村商工会が推進した北塩原村の村おこしのキャッチフレーズ。木地師の里としてはキツネを象った木製の民具「守護狐(まもりぎつね)」を考案・製造し、ジュンサイの里としては特産品ジュンサイの販売促進に取り組んだ。
注8農産物であるジュンサイについては、かつて福島県の炭鉱で石炭が黒いダイヤと呼称されていたことにあやかって、「緑のダイヤ」や「緑のダイヤモンド計画」といったキャッチコピーが考案されていたという。
注9中川新吉氏は山形県米沢市綱木の出身。新潟県白竜湖の近くにあるジュンサイ加工製造所にて採取及び加工方法を習得してきて昭和三、四年頃に裏磐梯で事業を始めた(『裏磐梯・北塩原の民俗』)
注10現在も裏磐梯で主流のジュンサイの採取方法。
注11「山形県赤湯地方でジュンサイ採りをしていることを聞き、彼の地を訪れて箱船を実際に見て帰り」とある(『裏磐梯・北塩原の民俗』)