開拓民が語った裏磐梯開拓史

『峠のみち』第19号に「裏磐梯開拓の今昔 親の背に学ぶ親の愛情と子の思い」という阿部久仁於さんの記事が収録されていました。昭和六十年に録音された、裏磐梯中学校の課外学習の成果物と思しき録音テープから文字起こしされた文章が主な内容です。その文字起こし部分を以下に全文引用いたします。曽原の佐藤カツ子さんが語った曽原の開拓地での暮らしについてです。また、同記事には昭和20年代の曽原の開拓民の家が写りこんだ貴重な古写真も掲載されていましたので、そちらも転載いたします。

収録日時:1985年2月20日
話し手:佐藤カツ子さん(67才)  (注1)
聞き手:斎藤教諭 鈴木教諭(裏磐梯中学校)

カツ子さん
「私たちは、昭和二十二年の四月に裏磐梯に来ました。私たち一家、おとうさんとわたしと子ども三人と守り子(注2)が、いとこの(曽原開拓)組合長(注3)と猪苗代駅から歩いてきました。しばらくは組合長のいとこの家に世話になり、子どもたちは分校に入学しました。その頃は一人の先生で一年から六年まで受け持っておられました」

「私たちは毎日毎日トグワを振り上げ原野を畑へと変えていきました。馬鈴薯とか大根、ささぎ、栗、ソバ、ライ麦などを作っておりましたが、(それらでの)収入は生活するほどは無かったのです。多少でも働かねば現金は得られないと思っていろいろと仕事をしました。夏はニレの木の皮をむき、秋は萱(カヤ)刈りをし、葦(ヨシ)を刈ってお金にしました」

「子どもたちは親の手伝いをして、妹や弟を学校に連れていき子守りをしながら勉強したものです。帰ってくると家事を手伝い、夕食後はランプの灯で勉強したのです。また、親は親で炭スゴ(注4)を編み、縄綯いなどして一時も休むことなく過ごしたものです」

「やがて冬が来て吹雪でもなると、狭い小屋は隙間から雪が入り、朝まで寝ていると布団の上に一寸(いっすん、3センチほど)もの雪が積もる。そんなことはしばしばのことでした」

「またある時は、炭運搬の賃稼ぎ。村の人々と桧原湖を渡り、金山や桧原の山まで行き、そりに炭を積み引っ張る。押す仕事は大変なものでした。雪がそりにやきつきどうにも動けない時、遠くから「おお~い、おお~い」と呼ぶ声、子どもたちが手を振って手伝いにくる姿は、何ものにもかえられない嬉しさで涙がこぼれおちるのでした」

「またある時は、子どもを連れ簗部(やなべ)の山(注5)へ薪を出しに行ったこともありました。次男が赤ん坊を負ぶって、三歳の子供を歩かせ、四キロの山道を登っていくのでした。山が高くなるにつれ普通には歩けず、右足を前に出しては木をつかみ、左足を前に出しては木をつかみして登ったものです。登りきると頂上はわりに滑らかで、切った薪は木馬道にまくり、それから木馬(注6)につけおとうさんが引っ張る。私と長男が押して、まくり場まで着くと、そこからまくり場へまくり落とすのです。まくり落とした薪はトロに積み直して吐出(はきだし)の土場まで着かないとお金にならないのでした。簗部の山は登りきると景色がものすごく良く、まさに下界をみれば天国のようで、磐梯山の向こうは猪苗代の湖水が見え、浮かんでいる船さえみえるのです。また地獄もありました。木馬を引く途中に足でも滑らしたら大変。右側は千尋の谷、親子もろとも命はないでしょう。こんなことはほんの一例ですが、話せばきりないことです」

「楽しいこともありました。春三月頃になりますと堅雪になります。野も山も湖も沼もみな自由に堅雪の上を歩けるのです。楽しみといえば、春神楽は青年主催でやるのです。どこの家でも公民館に集まり、神楽の滑稽さに腹の底まで笑う親子、本当に楽しいひと時でした。夏は盆踊り。親も踊る、子も踊って、参加賞を手にするときの嬉しさも格別でした」

「長い間、親子ともども苦しみ、しかし、この苦しみは決して無駄ではないと思います。いくら貧乏はしても、子どもは素直に育つ。親の苦しみを知ってこそ、親孝行にもなり、努力家にもなるのではありませんか」

「現在は交通の便も良く、何もかも便利よく、本当に昔から比べると夢のようです。しかし今は今でおとうさん、おかあさんは大変でしょう。文化が発達すればするほど景気は大きくなるといわれております。いつの世の中でも変わらないのは先生と親子の情だと思います。中学生の皆さんもすくすくと育って、先生や両親が期待される社会の一員となっていくことを心から願います」

聞き手「ありがとうございました。曽原の佐藤カツ子さんのお話をおうかがいしました」

以下、質疑応答に移った模様です。

聞き手「カツ子さんは、最初、家(自宅)がなかったのですか」

カツ子「ないです。(曽原の)組合長は私のいとこなの。私などこっちに来るとは思わなかったけど。うちの実家は大きな百姓で、百姓の経験があるもんだから。その頃(若い頃)若松へ嫁に行って。そして、うちのおとうさん(夫)が兵隊に行ったが帰ってきて。やっぱり空襲など若松にはあっもんだから、いとこが「行かねか、行かねか」こんなふうであんなふうで誘うのでした」(注7)

カツ子「私の親類に駒形開墾(注8)をして、百姓を大きくしていて、開墾二町、三町と持っていたの。何を作っていたかというと、梨、ぶどう、リンゴ、桃など二町歩くらい。親類なもんで、よくそっちに遊びに行って。なるなら大きい農家、を夢見てきましたのね」

聞き手「ここ(曽原)でもそういうことやりたい、と?」

カツ子「やりたいと思って曽原開墾に入ったら、湿地帯だらけで。そんなぶどうや梨やリンゴなどとてもできるものじゃないと知り。最初は畑なんかばっかりだったけど。あれは何年ごろだっぺ。昭和二十八年頃かな。水稲やりはじめたの、五畝や三畝ね」

聞き手「曽原地区だけかな?水稲、おこなっているのは」

カツ子「そうだなし。作ってみたれば、一枚二畝の田から二斗五升くらいのお米が穫れたのなし。おらうち、一番はじめて。やっぱり何が何たって、食料があの頃は不足で、田んぼはいいなっていうので。県の開拓の係の方には「ここは海抜が高いから米は絶対ダメだ」といわれたの。だけど作ってみたればとても良かったの。そしてからこんど米やったのなし。米さえあれば余裕はある、と思ってよ。一か月家で食べるお米は、あのころでうすら一万円はかかったのなし。一万円のそのお金が大変でね。コメ、コメ、と思って、米作ったのなし。それからだんだんとみんな楽になってきたんでねぇべかなし」

聞き手「田んぼ作んのに、畑を田んぼにしたのがし?」

カツ子「湿地帯のところを田んぼにしたのない。最初はトグワでやってたんだけど、時代が三年過ぎ五年過ぎて、農地造成など、やっぱりお金を借りてブル(ブルドーザー)で起こし始めたの。あれで、うちでは一町六反歩くらい作ったのなし。しかもなお、お金なんて何十万もお金取って米売って。そのころからようやく二、三年たったら転作などとかはやって…」

聞き手「今は少なくなったように見えますけど」

カツ子「今は観光地として勤めがあって、金取りがあるようになったから、百姓は食うだけになっちゃったの。最初は、みんな田んぼやめたべし。米安くてみんな田んぼやめて「月給取りになって買った方がいい」なんて言ったげんじょ、また、だんだん高くなったべし。二万円台になったべし。だからやっぱり、自分で食べるだけ持ってっと生活は楽みたいだけどなぁ」

聞き手「昔の萱(カヤ)刈りだけど、何に使ったもんですか?」

カツ子「昔、下在(原文では、この漢字に「したざい」のルビと「部落・猪苗代近郊」との注釈)(注9)に萱屋根あったべし。下在には萱材が無いのなし。裏磐梯の萱は質がいいんだっぺ。昔、おらげの百姓は萱屋根が多かったから、その補修とか葺き替えとか、萱をどんどん運んだわ。昔の家は壁つかっていたから、壁込めに葦(ヨシ)を刈っていった。だから、萱(カヤ)と葦(ヨシ)はものすごく売れたな。学校の子どもたちも萱刈りやって金取りしてやってたもんだ」

聞き手「(おはなしにあった)ニレの木の皮むきって?」

カツ子「ニレの木って、白い花が咲きアジサイに似てる木で、小刀でシューっと傷つけるとニレの木の皮がぺろぺろっと剥けてしまうの。上のくそ皮とって、目方で買ってたもの」

聞き手「何にすんです」

カツ子「紙の原料として。質がいいのでお札の原料になるという話で、一時は、皮むき一貫匁なんぼになるって。普通の日当だと大の男が三百円くらいの時、うまくいい場所にあたって皮がとれれば五百円も六百円も取れたの。六百円くらいはふつうだったな。業者があちこちの家に「採っておいてくれ」といってた。あの当時、裏磐梯でも川上でも村中でニレの皮むきしたからし」

聞き手「それは、自然になる木なんだなし?」

カツ子「自然の木だなし。今だら環境省がやかましくて採らにぃべない。この辺の木は小さいが磐梯山に行ったら太い木があったな。村中こぞってニレの木の皮むきだった。現金だべしな」

聞き手「その頃はここは曽原分校といってたなべし」

カツ子「ちょうどあそこの佐藤幸子さんのわきに曽原分校があったの。一年から中学三年まで一緒にいたんだから。思い出話をすればするほど、思い出が尽きないのなし」

聞き手「苦しかったことが多ければ、なおさらのこと昔が思いやられますね」

カツ子「今は何とか一人前に食べられ暮らしも楽になりました。おかげさまで」

(『峠のみち』第19号「裏磐梯開拓の今昔 親の背に学ぶ親の愛情と子の思い」より抄録)

注1現在、村有数のジュンサイ生産農家として知られる佐藤豊治さんの母
注2子守りをする人
注3曽原第一開拓農協の初代組合長を務めた佐藤勝春さん
注4木炭を入れるためのカヤで編んだ俵
注5字簗部沢山(やなべさわやま)周辺と思われる
注6「きうま」もしくは「きんま」と読み、硬い材でそりに似た形に作った搬出のための用具で丸太を並べた上を滑走させる。それが本文にある「木馬道」と思われる。
注7佐藤勝春さんはじめカツ子さんのご家族も含む十四戸の世帯が、先陣をきって昭和二十二年に曽原に入植し「曽原第一」と呼ばれました。ですので、このくだりは「百姓経験があったことも買われて何度も曽原開拓への移住を誘われていた」という意味でしょうか。
注8開拓地。耶麻郡駒形村。現在の喜多方市常世(とこよ)付近
注9地名ではない。「このあたり」の意味で、在(ざい)という言い回しがかつてよく使われたとのことだが、標高で区別して裏磐梯あたりが「上在」猪苗代町あたりが「下在」だったのでしょうか。
佐藤カツ子さん
記念写真(昭和25年頃、耶麻開拓事務所一行の来村を出迎えた佐藤勝春さん一家)