エッセイ「里山の分教場」

阿部 久仁於

 阿部久仁於さんによる「消えた『昭和』」と題されたエッセイの第八章に昭和の裏磐梯の分教場の様子がいきいきと描写されていました。久仁於さんの労作『学校発展史』の内容を補足するものとして掲載いたします。

八.里山の分教場

剣ヶ峯 阿部 久仁於

 磐梯山噴火後、それぞれに住みやすい土地を求めて人々が集まり里山に集落をつくってきた。桧原本村に桧原小学校・桧原中学校の本校があったが、本校まで遠いとあって、集落ごとに分校が建った。
 山道を歩いて裏磐梯の実家から十キロもある本校へ通った先輩もいた、と聞いた。
 秋元集落の子どもは、猪苗代町の分校であった千貫(注1)分校へ通い、高学年になると川上(注2)分校に通ったという。
 児童数が少なく複式学級(注3)や複々式学級(注4)、そして単式学級(注5)であった。教える先生も習う子どもも大変だった。忙しく働く父母のため、就学前の弟や妹を連れてきて学ぶ子もいた。分校の近くに自宅のある子はほとんどが自宅で昼食をとった。
 里山の分教場は、集落の人々にとっても役立つ場だった。「手紙を読んでくれ」とか「便りを書いてくれ」とか、「薬はないか」と薬をもらいにくる人もいた。先生も村の冠婚葬祭にでかけ、村人を手伝った。むかしは青年も多くいて、夜、分教場に集まり「夜学」もやった。おもに数学と算盤だった。
 本校に負けないほどスキーに興じて、分教場だけのスキー大会も裏山でしたものだ。
 裏磐梯中学校では、冬期間、自宅から通学できない生徒のために舎監と一緒に寝泊まりできる寄宿舎もあった。
(峠のみち第20号「 消えた『昭和』 」より)

注1猪苗代町・千貫
注2猪苗代町・川上
注3小一と小二/小三と小四/小五と小六 の三クラス編成
注4小一と小二と小三/小四と小五と小六 の二クラス編成
注5一年から六年までいっしょのクラス