米一俵 荒型十俵

大竹 繁

 これは昭和十二・三年当時の米と荒型との価格の対比でありました。荒型(あらがた)とは木地椀(きじわん)の原型で、一俵は百二十枚を詰め、二俵で木地師の呼称単位の一挽(ひき)といいます。この一挽を製作するためには、男二人女一人の労力で仕上げるのが一人前として認められる標準的な木地師の腕前でありました。当時米一俵は十二円五十銭、荒型一挽は二円五十戦であり、したがって米一俵求めるためには荒型十俵を必要とした訳でした。
 戦時中については不明ですが、戦後は多少価格対比が良くなりまして、昭和二十二年、米一俵七百円、荒型一挽四百八十円。二十五年米一俵二千六百七十円、荒型一挽千二百五十円というような対比でしたが、洋食のサラダボールの荒型が普及し、一枚十一円の値で取引されるようになると木地椀の生産は減少し、三十一年米一俵四千円前後、荒型一挽千四百円、三十三年米四千円荒型二千円、三十四年米四千八百六十円荒型千五百円とかなり変動があったようです。(後略)

 『北塩原村郷土史研究会会報第4号』掲載のこの記事は、繁さんが戦前からお亡くなりになるまでの永い間、執筆し保管されていた膨大な個人誌(備忘録的なもの)に基づいていると思われます。平成になって私家版の自費出版本としてまとめられたものが、ご家族の皆さんに配布されました。また、「個人誌」を研究テーマのひとつとする民俗学者の野本寛一先生が生前の繁さんを取材され、『個人誌と民俗学』第十五章「木地のムラ変容の軌跡」(注1)に生業の変遷を中心にした繁さんの人生が記述されています。

注1『野本寛一著作集Ⅲ「個人誌」と民俗学』2013年12月第1刷 岩田書院 刊