檜原村物語

ゴールデン・フォレスト(金森 徹雄)

金森氏は、前橋営林局の職員によって発行されていた機関誌『山脈(やまなみ)』の昭和30(1955)年4月号に、本名をもじった筆名「ゴールデン・フォレスト」名義で当時の思い出を詳細に綴っておられました。村にとって大変貴重な資料ですので、全文を以下に引用させていただきます。


 朝日、磐梯国立公園(原文ママ)の中に、檜原湖に抱かれポツンと取残されて静かに睡っている様な村、それが檜原村である。
 私は今でもこの村へ絶えない愛情を持ち続けている。何故だろう。
 都から遠く離れ、微塵も都会ずれしていない村人達の持つ素朴さ、純情さが、私をいまでも引きつけているのかも知れない。亦一様に貧しいこの村人達を、少しでも救ってやり度いと思う私のヒュマニズムが、今でも絶えざる愛情となって心深く刻まれているのかも知れない。
 私が猪苗代に赴任して管内各町村を見た時、眼に写ったのは、雪のない地方に較べて一様に貧しいと云うことであった。一年の中約半歳を雪に閉ざされている。謂わば貧しさは、寒冷積雪地帯なるが故に、宿命的に決定付けられている様に思われる。ただ比較的、所謂猪苗代盆地附近は米産で恵まれてはいるが、一歩山間部落に入ると殆ど耕地とても無く、僅かに国有林の資材で製炭して細々と生活している部落が如何に多いことか。払下げ得る資材も一人当りにすれば如何程でもない。謂わば貧しさが一生涯付纏っている様な哀れな部落。
 私の心は暗かった。
 赴任後間もなく私は檜原担当区管内の巡視に出掛けた。担当地区のT君から村の貧しさなどの説明を聞いたが、その時、彼の指さしたみすぼらしい住宅。住宅と云う言葉の表現では、余りにも大袈裟過る表現。哀れな掘立小屋の存在であった。私は其の中を覗いて見るに忍びなかった。
「T君あそこに居る人達はどの様にして寝るんだろうか、布団などあるんだろうか?」
「布団なんて勿論あるもんですか。筵の中へむぐって(原文ママ 標準語で もぐって)寝るんですよ」
「そうか、気の毒だね」
私は気の毒さと哀れさで一杯であった。勿論どこの村や町へ行ってもこの様な風情は見られることではあるが、村人達の一様な貧しさに加えて、何千倍かの貧しさの人々が、寒さに震えて、生きている。その現実が私の胸を、強く打ったのである。
 檜原本村の住宅様式は全く一般に見られるものと異なり、見るものをして一種奇異の感に打たしむるのであるが、これは平家の残党と云われる村人たちの遠い ゝ 過去から現在へと連綿と続く永い伝統であるかも知れないし、或は積雪地帯なるが故なのかも知れない。どこの家の内部も寒々とした感じがするのは矢張貧しさが深く浸み込んでいる為であろう。
 猫額大の耕地にソバ、大豆、大根、など細々と作っている村。だがこの村人達にも嘗ては少しばかりとは言え田畑はあったのであるが、明治十八年(原文ママ)の磐梯の大噴火の大溶岩流(原文ママ)は、彼等の永年辛苦と愛情とを注いだ田畑を押し潰し、各河川をせき止めて彼等を安住の地から追い払って仕舞ったのである。いまも尚、檜原湖底に沈んでいる祖先の墓石や家屋の名残を止める石垣や鎮守様。平家の残党と云われる彼等。壇ノ浦の合戦で、海底深く沈んだ彼等の悲しい祖先の宿命が明治になっても截ち切れず、彼等祖先の霊と一部の村人の生命とを湖底に呑んだのである。(注1)
 私が赴任した時は政府供出木炭の精算期であり、政府からの代金受領木炭も、飢餓の為には既にきわめて低廉な価格で闇から闇へ流れて行った為、働いても、働いても、金とはならず、苦しみに喘いだ時であり、謂わば貧困のドン底であった。村の農業協同組合は施す術もなく、慨嘆に明け慨嘆に暮れていった。勿論、国有林払下資材の期日までの完納などは思いも寄らないことであったし、私は県信連からの融資までも心配してやらなければならなかった。

 私はこれらの村人達を出来得る限り救おうと決心した。

 まず村の木炭搬出系統を調べた。生産された木炭は、約十五屯●(文字不明)の檜原丸とその繋船とに依って孤高森(原文ママ)部落まで湖水上を運搬され、更にここからトラックに依って猪苗代郡山若松方部へと搬送される関係から、村人たちは、船賃、トラック賃、と二重の支払をしなければならず、勢い彼等の手取りは益々細るばかりであった。
 私は本村までのトラック輸送一本化を、計画したが、孤高森(原文ママ)から檜原湖の左岸を迂曲して本村まで通ずる林道は粘土質の為、少しの雨でも降ろうものならトラックは時化の中の小船の如く上下左右に動揺して難渋すること一方ならず、本村まで到着するのは上の部で、途中の早稲沢部落附近でエンコするのが常態であり、積載量も勢い少なく、為に一俵当りの運賃も高いものにつく状態にあった。それに木炭価格の高騰を見る九月下旬からは、連日の様に空には灰色の雲が垂れ下がり、すでに冬をもしのばせる冷雨が時雨れて、トラック輸送などは思いも寄らぬ状態となり、あたら商機を逸すること再三であった。加えて十二月上旬から五月下旬まで積雪の為木炭の極く一部は馬橇で搬出されてはいたが、其の数量は微々たるものであり、その間の生活物資購入代金は一に降雪前の木炭搬出にかかっていた。
 私は橋梁の掛替や補修には出来るだけ応援する一方、土木監督所長のNサンや各業者へも懇願して、補修に努めた。
 かくてトラック輸送も或る程度までは成功を修めたが,この様に補修に骨をおっていた際、村民代表が或る日私を訪れた。その趣旨は、早稲沢部落から米沢までの県道開発促進の為賛同署名をしてくれと云うことであった。私は
「貴方方は道路を開発したいと云う。私としても勿論道路網が拡張強化されるのには異存はない。だが貴方方の目下の生命線とも云うべき、あの道路はどんな状態を呈しているか。貴方方の貧しさをすこしでもなくすのは、立派な搬出路にすべき補修工事にあるのでないか。いま丁度木炭の価が出て来ているのに、道が悪いばっかりに思う様に搬出出来ないでいるのでないか。もうすぐ越冬米の準備もしなければならないだろうし、その金も作らねばなるまい。炭焼をやめて、勿体ない一日をつぶしてその様にして歩くのなら、何故もっと現在の道路の補修についての趣旨書を持って歩かないのか。例えその道路が出来たとしてもすぐ利用すると云う訳には行くまい。私はこの趣旨書には全々反対である」
 私はむしろ腹立さを覚えた。代表の村人は、私の言葉を静かに聞いていたが「御尤で」の言を残して立去った。

 猪苗代地区がまだ紅葉を見ない裡、すでに海抜八〇〇米の檜原湖周辺の国有林の山々は紅を散らし、緑、赤、黄、と一幅の錦絵を織りなす時、山葡萄が近年稀れにみる豊作を見た。私はこれを原料として葡萄液を作り出そうと考え、各部落の人々に閑を見ては液を作る様申伝えた。莫大な量の山葡萄が採取され、やがて製造され、部落からの報告の合計量は五石余を上廻った。以前から販売先を依頼して置いた郡山愛村協同組合の柳田氏へ連絡したのであるが、水を入れて作ったものがあるのではないか、と云う売込先の不安から売込は失敗に終った。其の後葡萄液製造はどうなっているだろうか。国立公園の、脚光を浴びてクロズアップされた現在、純粋なブドウ液は土産物として喜ばれるであろうし、村の農業協同組合当りで一手に責任製造すれば有利と思われるがどうであろうか。

 亦ここら周辺は根曲竹が非常に豊富なので、行く行くは体裁の良い竹細工を裏磐梯土産として売出させ様と思い、まず竹細工の講習会を開いた。それから二月位すぎた頃であったろうか。出署日に私はT君を呼んだ。
「T君、竹細工の方は旨く行っているかね」
「連中、米の、むる(原文ママ 標準語で 漏る)様なザルばかり作っていますわ」
私は苦笑するのを禁じ得なかった。いまごろはきっと上達したと思うが、どうだろうか。

 すっかり落葉して全山木肌を現わし木枯らしが吹き初雪も訪れるころ、ここら周辺は「ナメコ」の天然生が相当発生し、生のまま或は壜詰として或る程度は売出されてはいたが、これが大増産は成功間違いないことであるので、ナメコの人工栽培を計った。これには肉の厚い新式の改良種を導入、相当数の増殖を計ったが、いまでは盛んに壜詰とされているとのこと。私は非常な満足を覚えている。

 亦あけびの蔓細工も思い立った。ここら周辺の国有林には相当あけびがあるので、採取すれば相当量になると思われたので、アケビ蔓細工をやって見たいと思い、若松市内の業者を訪ね、採取時期や蔓の製法について教えを乞うた。だが転任の為、遂に実現するに至らなかったが是非やって見たかった副業の一つであった。

 昭和二十三年であったろうか。県営林道が、喜多方営林署管内の大塩村から檜原湖畔の西岸を通り本村まで開発されることとなり、昭和二十五年だったと思うが、竣工を見た。この林道の開発に依って、林産物が、東岸沿いの林道に依り猪苗代方部へ、西岸沿いに喜多方方面へ搬出可能となり、檜原村更生の一大基盤として躍進出来たことは、私のみならず村民一同の深い喜びでもあった。これからは益々運搬状態が良くなる。
 そうだ天然氷などはどうだろうか。
 会津方部は海岸線から遠く離れている関係から、生魚介の保存貯蔵には莫大な量の氷を必要としていたので、檜原湖の天然氷が貯蔵出来たらどれ程良いだろう。加えて夏とて気温がずっと低いこの土地、貯蔵にはもってこいの条件だ。私は担当区補助のY君を呼んだ。
「Y君氷を貯蔵したいから、北面の裏山を掘って鋸屑を入れて密閉してくれ」
「やって見ましょう」
やがて彼に依って貯蔵穴が設けられ、氷は貯蔵された。だが貯蔵法がまずかったのであろう。夏までは、もたなかった。だが貯蔵庫さえ完全なものが出来れば、きっと成功するものと確信している。勿論、市販人造氷と競争するのには価格低廉で品質も優秀でなければならないし、消費地での距離も近づけなければならないが、それらの諸条件を更に研究し、採算のとれるものなら企業化して見たかった事業であった。

 亦代用塗料では絶体(原文ママ)に追従出来ないウルシの植栽を実行した。勿論、海抜八〇〇米の高冷地であり、気候の点で旨く行くかどうか心配ではあったが、ウルシの生育の、立地条件たる砂質●(文字不明)土たることや排水のよいことであることや空中温度の高いことなどは満足すべく思われたし、各人の宅地内への植栽に依って肥培管理も旨く行くであろうと考え、まず試植用として若松から2,000本のウルシを取り寄せ、これを各部落へ配布して植付けさせたが、私が去ってから約三年。どんな生育をしているであろうか。

 土地資源に対する副業の外に、あの広大な、檜原湖の水資源の利用について、私は絶えず深々と思索に耽った。二十二年(原文ママ)の夏の或る日、私は檜原村へ出張して、湖畔の「たばこ屋旅館」へ投宿した。夕食の膳には尺余の鮒が供された。私はジット見詰めた。物珍しいと云うような気持より、内水面漁場開拓への情熱が私をしてその魚へひきつけたのである。(注2)
 そうだ村人達を救う為には、内水面漁場の開拓だ!
 私は深く決心した。それには、繁殖能力が大で而も価値の大きいものでなければならぬ。私は夕食をソコソコに済ませると、階段を下りて旅館の主人と「アカハラ」(注3)の串がさされている炉端で向い合って座した。炉端の火はほのぼのと燃え、暗い電燈の光と交錯し、主人の顔が、時には強く、時には弱く、赤々浮出されて反映していた。
「あの檜原湖の水だが、微生物試験やったことあるかね」
「エェいつでしたかやったことあるんですが」
私は緊張を覚え、身体が独りでに前へ出るのを禁じ得なかった。
「その結果はどうだったろう」
「何でも詳しい事は判りませんでしたが、魚は良く育つ、と云う話でした」
私は喜びに溢れた。
「そうだ、豊富なプランクトン」
しめた! 私の心は踊った。
 私は直ちに文書を以って知事宛依頼状をしたたむると共に、福島県庁に大竹知事を訪れ、檜原村更生の一環としての公魚放流(注5)について懇願した。氏は快く引受けてくれた。
 私の心は軽かった。次いで水産課長をも訪れ、依頼した。かくて、来るべき四月下旬頃、諏訪湖から三〇〇万粒のワカサギ卵を送付し様との確約を得て帰署した。(注4)
 だが、希望の中に迎えた四月下旬もすぎたが県からは何の音沙汰もなかった。私は失望を感じた。
 私は再び県庁を訪れた。水産課長の話しは私の期待に反したものだった。話に依れば、県では早速諏訪湖の漁業組合へ連絡したのだが、本年は申込が多くてどうもむずかしいとの連絡だったので、その代り、本年は五,〇〇〇尾の鰻の放流で我慢して貰えないかとの事であり、私としては、この案は、第一、鰻そのものがそれ位放流したところであの大きな檜原湖ではどこへ散れて仕舞うか判らないし、数年後になって若し獲れたところで知れたものだし、余り村民の経済に益する様な訳には行かぬ。それに鰻の養殖は、生物学的に見てもその湖水では全々不能なので、本年は鰻でも仕方ないが、来年は是非ワカサギ放流の実現するよう取計らって貰い度い旨申伝え、落胆の裡に帰署した。
 だが雪も消え裏磐梯へバスが通い始めた五月下旬の或る日、県から私をして思わず喜びの声を発せしめた電文が打電されてきた。
「ワカサギ三〇〇マン スワコカラオクッタ テハイタノム」
私は連日の様に駅に電話で到着の有無を聞き合わせた。全く一日千秋の思いで待ち侘びた。
 只、この卵を放流するについて困った問題があった。それは、檜原湖には海老が多いと云うことである。この海老がワカサギ卵にとって大強敵で、それの食害から防ぐのには古蚊帳のようなもので魚卵を保護しなければならぬ。その時代は古蚊帳などの入手などは思いも寄らぬことであるし、水に浸かっても丈夫な純綿物がほしかった。これぞと云ってもスッ混紡品ばかり。純綿物で而もワカサギの稚魚が脱出出来る様な、網目の綿布がほしかった。私はこれにはすっかり頭を痛めた。私は担当区のTへ相談した。
「T君どうしたものだろう。全く困ったよ、何か旨いものないだろうか」
彼は暫らく滔々と考えていた様だったが、ハタと膝を叩いた。
「良い物がありますよ」
「何だね」
「私の実家の方で煙草栽培する時、苗に掛けるカンレイシャ、あれなら純綿物だし、網目になっているし、あれなら満点です」
「そいつぁ名案だ。すぐ手配頼む」
彼の手に依ってカンレイシャは準備された。
 電報が来てから三日位過ぎた頃であったろうか。待望の魚卵は到着した。魚卵は駅前で撤水され、水産課米谷技師の指導のもとで、カンレイシャに巻かれた魚卵箱は檜原湖へ浸水された。孵化まで約二週間。其の間、私は愛児の生れ出ずるを待つあの不安と喜びの気持そのもので、ワカサギの稚魚の誕生を待った。私の気持は、生まれ出ずるまで「カンレイシャで包んだがあの網目から海老の幼虫が侵入しまいか」と云う不安がこびりついて離れなかった。
 かくて二週間もすぎたころ、担当区のT君から「続々と稚魚が箱から脱出中、成功」の電話を受けた。私は喜びで一杯であった。
 私は直ちに檜原湖を訪れ、船に乗って現場へ行った。担当区補助のY君の手で引上げられる魚卵箱。私は吸い着けられる様に箱を凝視した。Y君の手ですくわれる箱から流れ出る水!
「Y君どこに居る」
「そら水の中にいるでしょう。黒い物が」
「ウゥ!居る居る」
私は思わず唸った。丁度大きさは長さ二粍(ミリ)幅〇.五粍(ミリ)の稚魚が、Y君の掌の中の水中を、生への歓喜と未来を祝福するがごとく、体を左右に動かして蠢めいている。
「大きくなるんだぞーー」
私はこれらの稚魚群に叫んだ。
 かくて成功裡に稚魚は檜原湖へと散って行った。私は、今後三年間は捕獲しないことを村人達に約束させ、その生長を待った。
 かくしてその年も暮れ、翌年四月下旬、アカハラの産卵期が始まる頃、釣人達は檜原湖へ ゝ と蝟集したが、アカハラに混じって二寸大に生長したワカサギが釣り上げられたの報は、私をいたく喜ばせた。
 その年の八月、私は湖畔の「たばこや」旅館に宿泊したが、おかみさんが、皿に二寸五分程に育った数匹の生のワカサギを持って来た。
「あの、今朝スマキの中に入ったの旦那サンに見せたいと思ってとって置きました」
「有難う、オォ良く育ったね」
私はジットもり上る感激の裡にワカサギを見詰めた。電燈の光りに、魚体からは、或いは赤、青、紫と種々の色彩が交錯して照り映った。私は飽かずにいつまでも ゝ も見つめつづけた。

追記  

 昨年から檜原湖のワカサギが盛んにとれて、壜詰や、串ざしとして売出されているとの由。私の喜びこれに過ぐるものがない。私は、喜びを以って此の拙い物語を書綴った。
 この成功は、一に温情溢るる福島県知事大竹作摩氏、並に絶えざる御厚情と御指導とを賜った菅野水産課長並に水産課員米谷技師に依るものであり、紙上より深甚な謝意を表する次第である。                           

(了)

wakasagi
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注1磐梯山の噴火は明治二十一年の出来事で、溶岩流(マグマ)の噴出はなく、水蒸気爆発による小磐梯山の山体崩壊が周辺に被害をもたらしました。また、檜原村民が平家の落人の末裔という伝承は存在していません。おそらく金森氏は在任中に木地挽を生業とした檜原村の「小椋一族」の来歴についての伝承を聞き及んだものの、後年両者を混同して認識していたものと思われます。
注2金森氏の猪苗代営林署勤務は昭和23年から27年まで、大竹氏は昭和6年から24年まで福島県議、25年から2期7年、福島県知事を務められています。従って本エピソードの時期については、昭和24年に県議の大竹氏に陳情したか、昭和25年以降の出来事のいずれかと考えられます。
注3アカハラウグイ(コイ科の淡水魚)のこと。ワカサギの導入以前も檜原湖ではフナやアカハラがよく釣れて釣り人たちで賑わっていたという。
注4ワカサギ(キュウリウオ目キュウリウオ科)
注5「公魚」はワカサギの漢字表記の一例。江戸時代、霞ケ浦のワカサギが徳川家に年貢として納められていたことに由来する(公儀御用魚)

*以上が『山脈』に掲載された『檜原村物語』全文となります。古いコピーを底本としているため判読できない文字がありましたことをお詫びいたします。
*阿部國男氏所有のコピーには、手書きで「T君 高畑栄 檜原村担当区主任」「Y君 矢部竹一」の注釈が加えられていました。

 また、昭和60年代からは阿部國男氏が村の古老への聞き取りや金森氏との文通などを通して桧原湖のワカサギにまつわる追加取材を継続的に行っていたようで、その成果は『檜原漁業協同組合40周年記念特集 ー種苗生産施設落成記念ー 冬の風物誌(原文ママ) 桧原湖のワカサギ』(平成4年刊行)などで発表されました。

『冬の風物誌 桧原湖のワカサギ』本文より抜粋、桧原湖における穴釣りの歴史の点描

(ワカサギ導入以前)
冬場は「地元の人々は 追っ込み で湖の魚を捕って」いた(阿部國男)

 *追っ込みとは、氷を割って雪を投げ入れ魚を追い詰めて捕る漁法

(『檜原村物語』の補足)
「ワカサギ採卵箱を桧原湖に沈め管理して協力したのは、担当区のY君と長峯舟付に住まわれていた磯谷定衛氏、そしてご子息の磯谷定次氏である。ワカサギが孵化するまでの間、磯谷親子で面倒を見たという」(阿部國男)

(ワカサギ穴釣りの黎明期について)
「桧原湖で穴釣りが始められるのは昭和33年。『裏磐梯・北塩原の民俗』(注)には「昭和36年の冬(原文ママ)に雄子沢分校勤務の山内宏裕先生が始めた」との記述がみられるが、それより先に地元の釣り愛好家達が始めていた」(阿部國男)

「当時は小屋もかけずに寒い吹きすさぶ桧原湖で小さな穴をあけてよく釣った。現在の檜原湖の南岸、第一駐車場前が、穴釣りが始められた場所」(阿部國男の聞き取りによる、佐藤束氏・遠藤鶴男氏の談話)

「桧原湖で穴釣りを始めたのは、(奥さんが桧原診療所に勤務されていた)笹岡栄民さんが早かったようだ。フナ釣りから徐々にアカハラ、ワカサギも釣るようになった」(阿部國男の聞き取りによる、大竹繁氏の談話)

「狐鷹森、早稲沢、金山、桧原方面へ釣り場が広がったのは昭和42年からと推定する。なぜかというと、この冬から除雪車が早稲沢、金山、桧原へ入った」(阿部國男)
(『冬の風物誌 桧原湖のワカサギ』より抄録)

(注)『裏磐梯 北塩原の民俗』は昭和五十二年の刊行。該当箇所は本文の128~130ページにあり、執筆者は山内強氏。「昭和三十七年頃、当地の雄子沢分校に赴任した会津坂下町出身の山内宏裕教諭によって、ワカサギの穴釣りが成功して以来今日の盛況をみるに至って」中略「山内教諭の「ワカサギの穴釣りについて」というプリントの中から拾って書くことにする」中略・以降は山内氏のプリントの記述引用「昭和三十六年に雄子沢分校に赴任した時、冬の退屈しのぎにワカサギ釣りを考えた。学生時代に精進湖で一度楽しんだワカサギの穴釣りを思い出して」中略「三十七年の春、結氷期を待って湖上に出かけて何回か穴釣りを試みたが全く反応がなく失敗に終わった。村人達はその姿を見て『キ印』ではあるまいか、とうたぐった位。その間約一ヶ月半。『ほんとうにだめかナー』と思いながらもある日ついに思いもかけなく釣れ始めた」とあります。

「ワカサギの穴釣り/氷上釣り」は、今では冬の裏磐梯・北塩原村を代表するレジャー産業へと成長を遂げました。桧原漁業協同組合は、毎年、村内の孵化場で孵化させた2億匹以上の仔魚を桧原湖へ放流しています。