桧原金山の昔話
佐藤 薫
噴火以前の鉱山繁栄期の桧原村の賑わい振りは「桧原千軒」として今に伝えられていますが、それに関連した記事を全文掲載します。金山集落の独鈷沢(とっこさわ)沿いに点在した五つの坑道の名前の由来についてのお話しです。
桧原金山の昔話
佐藤 薫
桧原金山(ひばらかねやま)の最盛期は今から三百年むかしの事だそうです。
その時の桧原村は約千戸くらいあったそうです。それで「桧原町」といって大変にぎやかで品物や食料品も沢山あって何一つ不自由はなく毎日毎日過ごされたということで、その時、喜多方(現喜多方市の周辺)は村であったということです。
どうして金山が盛んであったか。桧原鉱山で働く人が多く、沢山の人が集ったことと思われます。金山には精錬工場もあり、そこで金・銀・銅・鉛等の区別がされた。また、坑内の数は八百以上、九百近くもあったといわれております。坑内には全部名がつけられております。私が知っている坑内を申し上げてみましょう。
一つは五拾両坑(ごじゅうりょうこう)、二つは大直坑(おおなおれこう)、三つは水ぬき坑、四つは紫坑(むらさきこう)、五つは幽霊坑とあり、そのほかは知りません。
五拾両坑は毎月五拾両の税金を支払ったことから。
大直坑は、掘っているうちに金銀の脈が大きく膨らんで、沢山の金銀が見込めたので大直坑と名付けたという(注1)この坑内には四十八の階段があり大工さんが墨糸を張ったように上側がきちんと掘られている。また、階段は沢山の人夫が通って上り下りしたので角が丸く減っており、昔の面影が思い出されます。金銀を掘った場所は畳の数にすると二十畳はあると思う。(坑内は)水がいっぱい溜まっており、昔は魚もいて、その魚はめくらだったという。なぜめくらであることがわかるのかとは思いましたが、暗いところで光がないので目はなくてもよいと思う。
水ぬき坑は大直坑から沢山の水が出て仕事ができなくなったので、その排水に利用したという。
紫坑は、坑内の鉱脈が紫の色をしており沢山の金銀が含まれていたこと。
次に申し上げるのが幽霊坑です。あまり沢山の金銀が出たのでお祝いに芸者を入れて坑内でお酒を飲んで祝った。そのとき坑夫と芸者が落盤で全員死亡したという。それから毎日毎日幽霊が出たので幽霊坑と名付けたという。それはどうしてかというと山の神様のたたりといいます。山の神様は女の神様にて後家さんであるため、坑内に女と男が入っていると焼餅を焼いて落盤させたといいます。
それから話は変わりますが、私の家の先祖は旅館業ですが、よく聞かされました。「人の垢」とは大変ありがたいことで家のためになった、というのです。鉱山が盛んであった時、毎日毎日お風呂を沸かして坑夫を無料で入浴させたという。そのうえ、毎日新しいわらじを造り、それを坑夫にあげて喜ばれたそうです。なぜそのようなことをしていたかというと、坑夫の仕事中のわらじには少々の金銀が付着しているので、引き取った古いわらじを良く風呂の湯で洗うと金銀が取れて生活するのに大変役立ったというのです。これが「人の垢」です。
(『北塩原村郷土史研究会報』第4号「桧原金山の昔話」)
最後の「人の垢」のくだりは佐藤さんのむかしがたりの鉄板のサゲのように思われます。話の締めでおおいに受けて、笑いを取っていたのではないでしょうか。
ところで、なかば水没状態の大直坑に関しては『北塩原村史』と『米澤街道をゆく』(H1刊 高橋健・著 ヒューマンライフ出版局)にやや詳しい記述があるのですが、現在では安全面を考慮して坑道の入り口はすべて封鎖され中に入ることはできません。『米澤街道をゆく』には「明治になってからも多くの人たちが、いれかわりたちかわりこの古い金鉱の採掘を計ってつぎつぎに集まった。(中略)近くは昭和四十四年に、喜多方の地方政治家芥川良雄氏が復元を狙って調査を試みた。その報告によると、なんと坑道は安山岩の洞窟となって、幾重にも階段があり、地下水の中に没しているという。そして、その長さは一キロにもおよんでいたという。また階段は三世紀の時間の中でしるされた坑夫たちの足裏の脂汗によって、滑らかに黒く光っていた(後略)」とあります。
注1:大きく直れ=居住いを正せ、の意味でしょうか?