裏磐梯の郵便電話ことはじめ

阿部 國男(久仁於)

 裏磐梯の郵便局のはじめては、明治開化のころ桧原本村からでした。明治七(一八七四)年十二月に穴沢嘉久満氏が初代局長となり檜原郵便取扱所(のちに桧原郵便局)(注1)が開業されました。それから時代は下って…

1 戦後になって、いよいよ剣ヶ峯にも簡易局が設置された

 剣ヶ峯簡易局は、佐藤喜代司商店の一室を借り受け、昭和二十五年(一九五〇)三月十五日開局している。村役場から業務を委託され受託したのは佐藤氏であり、その業務を担当したのは、遠藤良雄氏である。剣ヶ峯簡易局開局と同時に、北塩原村役場剣ヶ峯出張所(原文ママ)を剣ヶ峯簡易局舎内におき、役場業務を開始したのである。(注2)
「当時の役場業務内容は、戸籍・異動証明・税金の徴収などであった。印鑑証明など役場本庁に出向き処理しなければならない事務や申請や請願などという手続きについては、猪苗代町経由、磐越西線の列車に乗り喜多方駅で下車、そして大塩行きのバスで北塩原村役場へ行くか、徒歩で京ヶ森(きょうがもり)の難所を越え、雄子沢(おしざわ)へ出て、滝ノ原(たきのはら)、大塩新田(おおしおしんでん)、そしてバスの来ていた北塩原温泉大塩(注3)へ出る。そして役場本庁へ行かねばならず、役場のある北山へ行くのには、泊ることを覚悟で出かけなければならない時代でもあった」(佐藤喜代司氏談)
 その後、事務担当の遠藤氏は、昭和三十年(一九五五)三月一日、役場本庁に採用され、後任は村役場職員が担当している。昭和三十一年一月三十一日、剣ケ峯簡易局舎を佐藤商店から分離して学校前に設置(剣ケ峯出張所と併設)昭和三十四年十一月十日、裏磐梯郵便局が開設されることにより、簡易局としての業務を裏磐梯郵便局に全て移行し、簡易局の業務に終止符をうつのである。

(北塩原村郷土史研究会会報4号「北塩原村の郵便局」阿部國男より)

2 いよいよ電話も開通

「剣ケ峯簡易局発足当時の昭和二十五年、電話はなかった。戦後のこと、進駐軍が使用していた電話が、引き揚げで不用になっているとの情報(注4)が流れていた。電話は田島慶三(注5)氏所有であった。佐藤喜代司氏は、千葉善記村長と共に田島氏と何回かの交渉によって電話を譲り受けることに成功し、簡易局に設置した。その電話は「吾妻十七番」 地域住民のための、耳となり口となる情報伝達としての裏磐梯電話架線第一号であった。裏磐梯に電話が入るのは昭和三十四年十一月十日であった。四十か五十の電話加入で、声による情報交換が始まるのであった」(古川一郎氏談)

 裏磐梯郵便局は、昭和三十四年、電話・電報をも取り扱う局として学校前の局舎から始まる。その後昭和三十八年に局舎を新築移転。

「開局当時は、学校前、簡易局舎でスタートした。電話交換機(磁石式交換機五一号)が入り、電話の加入数五十余で交換業務をする開局であった(注6)その後、九年間、観光地としての脚光を浴びて電話の需要も伸び、磁石式交換から四桁番号のダイヤル式となる。昭和四十三年十一月十一日がダイヤル式への切り替え日であった」(古川一郎氏談)

(北塩原村郷土史研究会会報4号「北塩原村の郵便局」阿部國男より)

 昭和三十四年、当初に架設された電話機は手回し式の電話機であった。電話機の取っ手を何度か回すと郵便局交換室にいる局員が出て応対した。「三番お願いします」と言えば「三番おつなぎします」という声で通話ができた(注7)

 剣ヶ峯簡易郵便局開局からしばらくたってから設置された『吾妻十七番』はだれでもが使える公衆電話として利用されたので、これが裏磐梯の一般公衆電話のはじめである。
 ではこれ以前はどんな通信手段で連絡しあっていたであろうか。
 前橋営林局猪苗代営林署の業務連絡電話を借りて連絡していたのである。前橋営林局猪苗代営林署は、周辺の山林の木材・木炭搬出のため大正十四(一九二五)年から本格的に営林事業を開始した。事業所間の連絡のための電話があり、必要によっては個人が電話を借りて言伝による連絡でどうにか生活に役立てていたのあった。どこへでも連絡できる訳でもなく不自由であった。東京電灯株式会社(現・東京電力)の電話も利用されていたと考えられる。

 昭和二十七年に裏磐梯に住み着いた時、我が家は豆腐店で、道路に面して、バスの切符も売る三文の店でもあった(右へ進めば狐鷹森・早稲沢・檜原方面と、左に折れれば桧原湖へ通じる三叉路にあたる便利な地点で小野川湖入り口のバス停留所も兼ねていた) 

 昭和二十八年四月一日、県内バス会社四社が福島県観光株式会社を設立し、「磐梯高原山の家」を宿泊施設として開業した(注8)昭和三十年、喜多方と細野間に定期バス(会津バス)が二往復運行され、早い人で昭和二十三年頃から始められていたバンガローもいっそう賑わった。剣ヶ峯地区にホテル高原荘が建ち営業を開始したのは昭和三十四年七月二十日であった。この頃まで、旅人は任意に民泊を余儀なくされてきたのであった。剣ヶ峯集落では阿部豆腐店が一時、便利屋的に宿泊者を泊めていた。他でも何軒かは工事関係者を宿泊させた家があったという。

(『峠のみち』第12号「裏磐梯電話架設発展史」阿部久仁於より) 

3 こぼれ話

「吾妻十七番」の電話は佐藤喜代司商店の中にあった剣ヶ峯簡易郵便局についた。周りには電話がなく、この一台が裏磐梯の人々の生活を支えてきたことは間違いない。「かかってくる電話の呼び出しが容易ではなかったこと。真冬の大雪の日の呼び出しは相当のものである。腰までぬかりながらの呼び出しは思い出すのも苦々しい」という佐藤喜代司さんご夫妻。地域住民の手となり足となってご活躍くださったことに謝意を申し上げたい。
 小野川集落でただ一台の電話は佐藤鶴造さん宅に入った。十六番である。小野川までの架線にかかる経費は相当なものであったろう。一台の電話を小野川集落で使うのだから、これまた呼び出しの連絡には苦労されたと想像している。

(『峠のみち』第12号「裏磐梯電話架設発展史」阿部久仁於より)

佐藤喜代司さん
注1国による郵政事業の近代化を図った明治時代、地方においては郵便局の設置が追いつかず、地方の有力者が局長(国家公務員の身分)に任命され、私有建物を局舎として提供した。それらは俗に特定郵便局といわれました。
注2北塩原村の正式な合併と名称の使用開始は昭和二十九年ですが、明治二十二年以来、北山村と大塩村と桧原村の三つの村は役場本庁が北山にのみ存在する組合村(正式名称は北山村外二ヶ村組合)でした。
注3当時の呼称。現在の裏磐梯大塩温泉(大塩温泉)のこと。
注4郷土史研会報4号の佐藤喜代司氏の寄稿『簡たら一号に憶う』に「(前略)郵便局の開設に関連して電話の問題に一言ふれなければならない。当時裏磐梯には占領軍使用の二台が観光ホテルにあっただけで民間使用は一台もなかった。其の中占領軍の縮小により一台が未使用との情報に依り(後略)」という記述が見られます。タイトルの「簡たら」とは、剣ヶ峯郵便局の郵便貯金の記号のこと。
注5田島慶三(たじま けいぞう)
裏磐梯開発の第一の功労者ともいわれた実業家。明治38年生まれ北海道出身。会津若松商工会議所会頭、福島県観光協会顧問、裏磐梯観光ホテル社長などを歴任。
注6電話加入台数についての確認できた最も古いデータは「昭和37年版 福島県電話番号簿」で、56戸65台が記載されている(阿部國男調べ)
注7当時、3番は國男氏の実家「阿部豆腐店」の番号でした。
注8「山の家」は昭和六十年十一月に営業終了。