戦後の曽原の発展(曽原開拓のころ)
北塩原村郷土史研究会報『峠のみち』第8号(H6発行)に「ある開拓者のあゆみ」という記事が掲載されています。本文には昭和27年から曽原分校の教員として勤務された阿部國男氏による当時の回想が記されていますが、それとは別に、國男さんが発掘した平成3年2月発行の『耶麻老連 第十四号』(耶麻郡地方老人クラブ連合会会報)掲載の佐藤トメさんの手記が、執筆者であるトメさんから承諾を得た上で掲載されていました。曽原開拓地(第二)の開拓者ご自身による貴重な証言となりますので手記のほうは全文を引用させていただきます。
阿部國男さんの本文(抄録)
昭和二十七(1952)年に桧原小学校曽原分校に勤務することとなり裏磐梯の剣ヶ峯に腰を据えてから四十二年間桧原・裏磐梯の発展の現実を見てきました。
昭和二十九年から北塩原村となりましたが、前の年は町村合併の問題で地区民は大きくゆれ動いていました。(そのころ)道路は砂利道でしたし、砂煙をあげてバスは走りました。積雪の多い冬はバスは運休しましたし、とても不便を感じました。開拓の家々は、長い丸太で骨組みし、囲いを萱で覆うというお粗末な家に住んでいました。電燈もなくランプ生活でしたし、学用品を買いたくてもすぐには手に入りませんでした。大変苦労の日々を過ごしました。(早い世帯では)昭和二十五年頃から四角な柱の家を建てはじめており、昭和四十年にかけて(ほぼすべての世帯が)現在のような住宅に変わっていきました。当時、開拓地の組合長さんと話したのですが「裏磐梯の開拓はいい方である。よその開拓地は困窮に耐えかねて夜逃げ同然に離農していくのに、ここは将来は観光地として一坪ずつ売り渡しても飯が食えるわ」とのことでした(後略)
(『峠のみち』第8号「ある開拓者のあゆみ」より抄録)
裸一貫 ー曽原開拓一筋に生きるー 佐藤 トメ(『耶麻老連』第十四号より)
四月十五日の日が巡りくるたびに熱い思いが突き上げてくるのです。希望と夢とが幾重にも織りなし、曽原開拓という新天地を求めての出発の日でありました。
春まだ浅く木の芽の硬く閉ざされていた裏磐梯・曽原開拓(第二)の地へ、家族して入植しました。第二の人生を歩みだした日でもあります。それは戦後間もない昭和二十六(1951)年四月十五日でした。
夫は二十九歳、私は二十七歳、長女は小二、長男はよちよち歩きの二歳でした。家族は安住の地を求めて曽原開拓地(第二)での歩みをはじめるのでした。
国からの土地配分は一戸約二町歩くらい。入植者は十数名、県開拓課のご指導で適正に配分された土地の開拓でした。敗戦後のことで、農産物の生産なくしては生きられない時代でもありましたから、食べる米も着るものも不自由な生活の中で、都会から入植してきた人々と開拓地をひらいてきたのです。
見渡す限りの原野には、柳とハンノキが繁り、どこから手を出したらよいのか困る有り様でした。そのうえ湿地も多く、畑にすることもできず、僅かばかりの高地を畑にしても、小さい川は堰き止められ低い土地で水溜まりとなり、広い湿地帯は広がるばかりでした。
まだ機械化されず唐鍬(からぐわ)一丁の自力による耕作でしたし、収入となる仕事は木炭の生産とか土木の作業でしたが、営林署から払い下げ原木を買うのにも、現金収入のない私たちには手も足も出ませんでした。
夫が出稼ぎで得た金で、畑として使えない湿地を開田して稲作を始め、秋にはどうにか稲が実ったのを見た時の感激は一生忘れられません。ようやく二反歩の開田ができ、反収三俵ばかりではありましたが、我が家にとってはこのうえない自然からの贈り物で、お米の有り難さをしみじみ味わいました。
私たちの開田が話題となり開拓者も開田に努めたので、五反六反と年を重ねるごとに開田は進み、一町歩ちかい田を持つ農家もあり、ようやく一人歩きができるようになり、成耕検査も終わって初めて自分の土地として売り渡されたのです。開拓に入植して二十数年の歳月は流れていました。
しかし、多くの借金の返済が出来た今、懐かしい物語となりました。
そんなある日、夫が急死し、予期しない現実に三人の子を抱えて、私は路頭に迷うのでした。相談する夫のいない侘しさは誰にも分かってもらえない。淋しさと苦しみをしたたか味あわされて生きてきました。初めて見た桧原湖や曽原湖の美しさは心に焼き付き、今も美しい自然を見ていると自然に心は和むのです。裸一貫で始めた開拓は今にして生活を支えるものとなりましたが、隣人の暖かい愛と情けに、私は立ち上がれたのです。
時代は急変し、観光地としての裏磐梯は人々の苦労を包み隠して、観光事業が進められて行きます。これまで生きてきた私の人生は、裸一貫の生活でしたし、いろいろとおきてきた生活経験の中から学びとり生きてくることが出来たのです。
(了)
曽原開拓地(第一)は現在の曽原周辺、曽原開拓地(第二)は現在の狐鷹森周辺。終戦直後に、農林省開拓局により営農のための開拓地として策定された地域を指します。なお阿部國男氏の聞き取り調査(『峠のみち』第8号「曽原開墾と曽原開拓のころ」)によると「剣ヶ峯も(曽原第一・曽原第二・蛇平同様の)開拓地指定を受けるために有志が集い、剣ヶ峯の用地を県に買い上げてもらって再配分してもらえないか交渉努力はした。が、曽原地区のような広い土地がなく、営農できないとして開拓計画からはずされてしまった」とのことです。
『東北大学教養部文科紀要・第四集』(昭和三十四年)の「東北地方における火山山麓開拓地の土地利用について」(横山 弘)より転載させていただきました