学校発展史
阿部 國男(久仁於)
一 はじめに
これまでの裏磐梯(北塩原村)には、九つの分校がありました。規模小さな校舎でした。
学校とはいえ板囲いの小屋とでも言った方がいいような、お粗末な校舎でした。各集落毎にありましたから、地域の人々は「おらほうの学校」として親しんで来ました。北塩原村の約半分の面積を持つ旧桧原村には、広い土地に各集落が点在していました。学校という名のつくポツンポツンと置かれていました。
昔は、家庭教習所とか、家庭教育所(後に分校)という名の小規模な学校が集落ごとに建てられていました。
1955年(平成7年)の今、過去を振り返ると裏磐梯に住み着いて43年の歳月を過ごしたことになります。43年前のこと、耶麻郡熱塩小学校から桧原小学校曽原分校に転勤した私です。それは1952年(昭和27年)10月のことでした。
新しい村、北塩原村になる2年前でした。旧桧原村には当時、桧原本村にある小学校、中学校(本校と呼んでいました)があり、その他に集落ごとに分校が置かれていました。数にして9つもの分校が点在していたのです。そんな中のひとつ曽原分校に着任しました。3年半在職し、その後は小野川分校に5年、早稲沢分校に4年、桧原小学校に1年、そして裏磐梯小学校が新しく出来てから7年勤めましたから、かれこれ裏磐梯の学校に20年ほどお世話になりました。裏磐梯小学校を最後に退職したのは1984年(昭和59年)3月でした。
1959年(昭和34年)4月1日,裏磐梯に裏磐梯小学校と裏磐梯中学校が創立しました。裏磐梯にあったいくつかの分校を統合して誕生しました。
時代の推移とともに、集落ごとの分校はひとつひとつ消えて行きました。1994年(平成6年)3月で桧原小学校早稲沢分校は閉校となり、4月から本校(桧原小学校)に通学することになりました。分校の灯がまたひとつ、桧原地区から消えたのです。
1995年(平成7年)4月、桧原中学校が裏磐梯中学校と統合することになり、いままでの裏磐梯中学校の跡地に新しい中学校校舎がこの春完成します。これまでの桧原中学校は桧原本村から消えることになりました。
明治から現在に至るまでの学校の歴史を記録し、地区民の教育に対する情熱と、学校に寄せた愛情を垣間見ることにし、学校の年表も整理し主な事柄を下記に並べることしました。
二 昔の学校
①明治の学制発布と学校の初め
1872 | M5・8・2 | 太政官より学制発布 |
北山小学校
1873 | M6・6 | 太政官告諭第114号に基づき、樟、関屋、土合、下柴、下吉、谷地、漆の各村が連合し、漆村・岩本善三郎宅に漆村小学校開設 |
大塩小学校
1873 | M6・6 | 第四大区十八小区 大塩分校を大塩村長泉寺に設く |
猪苗代小学校
1873 | M6・3・15 | 太政官令に基づき、区長小林恒三宅を借り受け本町小学校として創立 |
吾妻第一小学校
1873 | M6・9・3 | 酸川野部落の民家を借り開設、酸川野小学校と称す |
1872年(明治5年)壬甲8月2日(太陽暦9月5日)、文部省布達13号別冊をもって、画期的な教育制度『学制』が頒布されました。これをうけて、各市町村は学校を設置することとなり、1873年(明治6年)に、北山、大塩、隣接の猪苗代、吾妻に小学校が創立されています。
桧原小学校の開校は後々のことで、磐梯山噴火の前年1887年(明治20年)の大塩小学校の記録にありました。
1887 | M20・4・1 | 大塩簡易小学校と称し、桧原を併せ創立、桧原に分教場を置く |
桧原小学校は、北山、大塩、隣接の猪苗代、吾妻の小学校が開校してから14年後に大塩小学校の分教場として始まるのです。
②学校要覧
それぞれの学校には、学校要覧がありその記録には、その学校の変遷を沿革として記録されています。裏磐梯に近い隣の猪苗代、旧吾妻村(現在猪苗代町)は、当地域と似て山地の多いところですし、こちらと比較するのも面白かろうと北塩原村の学校との比較のためにもそれらも抜き書きしてみました。
人類がこの世に生存し地球上で生活を始めてから、生活そのものが教育であり、教育制度ができる以前から教育は存在し、何らかの形で教育し子弟を教えて来たと言われています。
各学校からいただいた学校要覧を基にし、『福島県教育史』(福島県教育委員会・編集)、『耶麻郡誌』などを調べ、明治初期における『学制』に基づく「教育制度」を明らかにし、これを支えた「教育思想」そして「教育の方法」に触れてみたいと思います。
三 学制発布のころの北塩原村
藩 | 村 | 明治22年~ (町村制施行) | 昭和29年~ (町村合併 促進法施行) |
会津 | 漆村 | 北山村 | 北塩原村 |
土合村 | |||
谷地村 | |||
下吉村 | |||
樟村 | |||
関屋村 | |||
大塩村 | 大塩村 | ||
下川原村 | |||
上川原村 | |||
桧原村 | 桧原村 |
この頃は、村といっても小さい村でした。北山小学校の開設当時の記録によれば漆村をはじめ、五つの小さな村と喜多方市関柴町下柴村を含めた連合の村が一つになり北山小学校で学びました。大塩でも三つのむらから大塩小学校に通いました。
①太政官令
学制発布は、太政官布告により小学校令が出されたと言われます。太政官とはどんな組織で、どんな職権があったのでしょうか。
太政官とは「明治政府初期の最高官庁。1868年(慶応4年)設置。はじめ議政以下七官を置き、1869年(明治2年)に二官六省制。1871年(明治4年)に三院八省制に改革され、1885年(明治18年)、内閣制度発足と共に廃止された。一般に律令制に置けるものと区別して、慣習的に「だじょうかん」と読まれる」(大辞林)とありました。
「新政府は廃藩置県(明治4年)徴兵令(明治5年)、国立銀行条例(明治5年)、地租改正条例(明治6年)など、強引に富国強兵策を推し進めた。その一環として、1872年(明治5年)昔からの稚児教育とか寺子屋方式の手習いから脱却した新しい学校制度を確立したのである」(『世界教育史・日本の教育』)
②廃藩置県と学区
福島県として一本化されるまでは、廃藩置県の1871年(明治4年)から5年を経過しています。若松県・磐前(いわさき)県・福島県の三県分立時代を経て、明治9年に福島県一本に合併されて行くのです(『福島県教育史』)
明治5年の学制発布により各市町村に学校を開設したとはいえ、一定の教則もなく「読み、書き、そろばん、手習い(習字)」などの寺子屋方式が続いたといわれています。『耶麻郡誌』によると「学制布告以来、教育制度は徐々に改革され、長い間、紆余曲折しながら改善されてきた」とのことです。
全国を八つの大学区に区分し、各大学区に大学校をおくこと、各大学区を32の中学区に区分し、各中学区に中学校一校をおくこと(計256校)、さらに各中学区を210の小学区に区分し、それぞれ一校ずつの小学校を置くこと(一大学区に6720校、全国に53760校)とした(『日本の教育』)というのです。
大塩小学校は、第4大区18小区に位置づけられた学校でした。
『耶麻郡誌』によれば、「1872年(明治5年)の学制発布により、翌6年、若松県は官内4大区のうち27小区に分け小学校を設立した」という。
『耶麻郡誌』の記録のうち、北塩原村の学校の記録を見ることにします。
小学校
学校名 | 設立年月日 | 位置 | 生徒数 |
---|---|---|---|
第十七小区 | M6・6 | 漆村(民家) | 60人 |
第十八小区 | M6・6 | 大塩村 | 9人 |
1874年(明治7年)には、通学上不便な地域を減らし小学区を改めています。北塩原村分では、漆、大塩、桧原の小学校の名が見られます。
小学区域 | 人口 | 町村名 | |
六十二 | 五九一 | 漆・谷地部分 | 漆小学校へ入学 |
六十三 | 六六五 | 下柴・下吉・平林 | |
六十四 | 二三四 | 関屋・土合分・樟 | |
六十五 | 八五九 | 大塩・上川前・下川前 | 大塩小学校へ入学 |
六十六 | 四五八 | 桧原 | 桧原小学校へ入学 |
さらに1886年(明治19年)小学校令に基づき、翌20年実施した内容は次のようでした。
学区番号 | 学校名 | 本校位置 | 分教室位置 | 学区内町村名 |
---|---|---|---|---|
十二 | 北山尋常小学校 | 北山村 | 下柴村 | 北山村・下柴村・下吉・関屋村・関柴村 |
大塩村外一箇村
学区番号 | 学校名 | 本校位置 | 分教室位置 | 学区内町村名 |
---|---|---|---|---|
十三 | 大塩簡易小学校 | 大塩村 | 桧原村 | 大塩村・桧原村 |
その後は、名称が変わる程度で特記する事項はありません。大塩小学校の名称が1887年(明治20年)のときは、大塩簡易小学校であり、桧原は大塩小学校の分教場として桧原小学校の名称が見られます。また、1893年(明治26年)の大塩小学校の記録には、
1893 | M26・4・1 | 大塩村、桧原村組合立大塩尋常小学校と改称し、桧原に分教場を設く |
とあり、
大塩小学校
1918 | T7・9・1 | 桧原村は校舎を改築し、桧原尋常小学校として分離す。桧原に分教場を設く |
桧原小学校
1918 | T7・9・1 | 桧原分教場本校と(大塩小学校のこと)分離して、桧原尋常小学校と称す |
と記録されています。
③史上最初の公立小学校
文部省年報は毎年出版されていました。1874年(明治7年)の年報の中に収録されていた北塩原村分を書き出してみます。
名称 | 学科 | 位置 | 生徒 | 主者 | |
男 | 女 | ||||
漆村 | 小学 | 第4大区漆村 | 69 | 市川又蔵 | |
大塩 | 同 | 同 大塩村 | 90 | 14 | 渡部左平 |
桧原 | 同 | 同 桧原村 | 31 | 佐瀬助八 |
学校を開設しても種々問題点がみられました。
全ての人民の子弟に、小学8年間(下等4年、上等4年)の教育を受けさせようとしたが、政府と地方自治体の財政難のために、無償制を実施することが出来ず授業料を徴収したとのことです。月50銭(当時の50銭は玄米一斗分に当たる)というものでした。農民の多かった日本では農民大衆にとっては、はなはだ有難迷惑な原則であったといわれています。若松県では、明治7年月額一銭、明治8年には一家一名一銭、一家二名一銭五厘、一家三名で二銭を徴収しています。国の方針で決めた授業量も各県まちまちで徴収していたようです。ですから就学率も悪かったのです。(『福島県教育史』)
四 分校の多い裏磐梯
北塩原村の総面積は234.89平方キロですが、旧桧原村はその約半分の面積を持つ広い地域ですから、集落ごとに分校が建ちました。分校の開校順に記録してみます。
私が裏磐梯に住み着いた戦後には、早稲沢、金山、曽原、(曽原には季節分校を含めて二校)蛇平、小野川、雄子沢、剣ヶ峯の各集落に分校がありました。隣接している千貫(秋元集落と千貫に住む子弟が学んだ)、川上にもありました。中学校の分校としては、曽原、小野川、そして雄子沢(長峰集落)にありました。後に剣ヶ峯に桧原中学校の裏磐梯分校ができていくのです。
桧原本村にある桧原小学校も大塩村から遠距離の集落でしたから、大塩簡易小学校の分教場として開校しています。後に大塩小学校から分離し桧原小学校として独立校になっています。
早稲沢に分教場の名が出てくるのは1919年(大正8年)のことでした。それまでも、何らかの形で教育は行われていたのではないでしょうか。早稲沢も小野川も雄子沢の集落にも、家庭教習所とか家庭教育所、長峰にあった長峰教習科教習所を分教場としたという表現で書き表されているのです。昔は公式でない、寺子屋方式の教習所として民家の一室を借りるなどして、子弟を教育していたに違いありません。
小野川は1933年(昭和8年)に家庭教習所を分教場とするとあり、長峰は昭和9年、大塩の滝ノ原は滝ノ原分教場を設置し民家を借りて教育が始められた、とあります。
裏磐梯の小野川、長峰、細野そして秋元原にある集落は、磐梯山噴火前からの集落ですから、何らかの形で子弟を教育する場所や、教える先生も外の市町村からやって来て教育していたのではないかと思われます。
曽原や剣ヶ峯に人々が住み着くようになったのも、大正時代であり(記録によると磐梯山噴火後5年後の1892年(明治25年)ころ若松の有志、三十数戸、曽原に移住し曽原開墾をはじめたという。しかし、昔のこととてコメ作りでは収穫も少なく次々と大正の初め離農した)戸数も数える程の集落ではなかったと思われます。
曽原に桧原小学校の分教場を開校したのは1940年(昭和15年)1月10日、と記録に見られます。それ以前は、向学心に燃えた少年等は12キロほど離れた桧原の本校に毎日歩き通したということも聞かれます。
曽原、狐鷹森、剣ヶ峯、蛇平はどちらかというと比較的新しい集落ですから、学校の施設が必要になって地域住民の要望が学校という形になるまで、昭和の初期から十数年かけて運動してきたと思われるのです。児童生徒も多くなって益々、教育への要望がつよまるなか、小学校の分校に同居する形で、小野川、雄子沢(長峰)に桧原中学校の分校が開校したのは1947年(昭和22年)のことですから、比較的新しいといってもいいのではないかと考えてしまうのです。このころ、裏磐梯を観光地にする運動が展開されていて(磐梯朝日国立公園の指定は1950年(昭和25年)9月5日です)曽原地区、蛇平では戦後の混乱期を克服するための農業施策としての開拓事業が始まるなど、社会的には大きな動きが見られます。これ以降、裏磐梯の地域は、日本全国からも世界からも注目される地域として人々が集まる所となり現在の様子に発展して行くのです。
1955年(昭和30年)には、それまで分散していた曽原、小野川、雄子沢をひとつにし、剣ヶ峯地区に桧原中学校裏磐梯分校が統合された形で始まっています。そのため、小野川、雄子沢の生徒のために同じ敷地内に中学生のための寄宿舎も建ちしばらく運営されています。小野川、雄子沢集落への道路が改良されるにつけ、寄宿舎は無くなりました。
1958年(昭和33年)9月26日の夜半、曽原分校が台風によって倒壊したため、小学生(剣ヶ峯、曽原、狐鷹森集落の児童が通学していた)が、分散し教育を受けました。そのころは狐鷹森地区に曽原分校の季節分校(冬期間のみ通学する学校)ができていましたから、狐鷹森と曽原集落の一部の児童がその季節分校に通学し、曽原の一部の児童と剣ヶ峯の児童は剣ヶ峯にあった中学校の講堂を借りて授業を受けました。
翌1959年(昭和34年)四月、裏磐梯小学校、裏磐梯中学校を創立しています。当時、PTA会長をされた佐藤喜代司さんによると「地区民、皆して新しい学校建設に協力したものだ。長い間住民の悲願でもあり、新しい学校に学べるようになったのも、村行政に関わった村当局初め、村民各位のご協力に感謝したい」と当時を振り返り語られるのです。しかし学校が新しくなっても先生の宿泊するところがなく、佐藤氏宅に同居していた先生も数人いて「子育ての最中とあってなかなか先生のお世話もたいへんでした。」と語る、奥さんの佐藤フサヨさんでした。教員住宅ができていくのは後のことですから、先生方も民家にお世話になるなどして、お世話くださる方々もたいへんでした。
秋元集落の児童生徒は、秋元集落の近くの千貫分校や川上分校にお世話になっていましたが、裏磐梯小学、裏磐梯中学校が創立されることにより猪苗代町への委託教育は解消されました。
分散型の分校教育は統括されることになりましたが、遠隔地である小野川と雄子沢(長峰)集落では分校はそのまま残りました。その後、ようやく1990年(平成2年)9月に両分校は廃校となりました。
五 未来に向けて躍動する北塩原村
1977年(昭和52年)桧原小学校、桧原中学校の校舎を落成し、1984年(昭和59年)には大塩小学校の新校舎の竣工、そして1987年(昭和62年)には北山中学校、大塩中学校を統合し北塩原村第一中学校を創立し、北塩原一中の新校舎が建てられました。
1993年(平成5年)には、裏磐梯小学校の新校舎を建築完工し、さらに1994年(平成6年)から1995年(平成7年)にかけて裏磐梯中学校を建設中であります。
今、将に北塩原村は人材育成のために学校施設を次々と新築し整備し、未来に向けて大きく動き出したという躍動している青春を感じさせるような村づくりが行われて来たという感慨を持つのです。
六 天災と人災
長い歳月にはいろんな天災人災に見舞われることもあって、それらを克服し立ち上がった村民のエネルギーを感じてしまいます。
① 磐梯山の破裂
桧原集落に学校ができたのは、磐梯山噴火の前の年1887年(明治20年)のことであります。磐梯山の噴火により被害をうけたかどうかは定かではありませんが、桧原湖に水没した集落の近くに学校が建てられていたとすれば、水没の難から逃れるために校舎は高い平地に移ったに違いありません。
猪苗代町吾妻小学校の学校要覧には磐梯山噴火の様子が記録されていました。
1888 | M21・7・15 | 磐梯山破裂、校舎圧倒、書類器具埋没す。7月24日まで閉校 7月25日より12月5日まで若宮、三郷分教場に収容する |
とありました。磐梯山は噴火でなく破裂という表現、そして校舎圧倒という、想像以上の大災害に見舞われていたに違いありません。
➁地滑りと火災
災害は忘れたころにやってくると言いますが、
1899 | M32・10・29 | 桧原分教場火災にあい校舎全焼、 民家を借り受け校舎に充てた |
1938 | S13・10・18 | 桧原小学校、本校舎地すべりのため校舎倒壊後、新築 |
という記録がありました。
「26日は魔の日でした」と語られたのは、北塩原村教育委員会教育長を長い間お勤めいただいた井上清光さんでした。
①昭和33年9月26日 桧原小学校曽原分校、台風22号により倒壊
②昭和41年4月26日 桧原小学校金山分校、火災により全焼
③昭和42年5月26日 北塩原村大塩大火、二部落九十九棟、注意報下、二時間余り燃える
という「26日の魔の日」が続いたのでした。
学校火災については、金山分校の全焼、そして昭和33年4月11日の秋元集落にあった千貫分校の火災。千貫分校は昭和51年7月15日にまたしても火災で焼失しています(二度目の火災の後、千貫分校は閉校しました)金山分校の火災については、当時、毎日新聞社が『教育の森』というシリーズで日本の教育を取材し記録し単行本で発行していました。その「⑥谷間からの訴え」に書き込まれてしまうのでした。31ページから6ページほどにわたり、金山分校失火事件が記録されていました。『教師一人だけの分校で教える苦しみ』『僻地教育は「高山植物」にまかせておけ』などと、一人住まいの分校教師の悩みと苦労が切々と書き込まれているのです。当時の教育制度の問題点も述べられていて、一人暮らしの若い教員が、僻地の中でノイローゼを高めて行き、分校を全焼させてしまうという事件でした。当時、私も早稲沢分校に勤務中でしたし、火災発生の朝早く、桧原小学校から電話を受けて現場へ急ぎ駆け込んだものでした。
昭和42年3月5日の毎日新聞の社会面には『氷結した湖(桧原湖、小野川湖)の湖上通学は危険』と報道されました。桧原湖や小野川湖そして秋元湖は、冬期には全面結氷してしまいます。地区民は、湖の氷が完全に凍ると安全を確かめ湖上を歩いて対岸へ渡ります。その方が湖岸の積雪の多い道路を歩くよりは楽ですし、時間が短縮できるとあって、冬の雪の多い陸路よりは氷結した湖上が便利でした。しかし「氷一枚、下は地獄」ですから安全を保障するものはありません。
このことがあって、昭和42年の冬から除雪車が桧原、金山、早稲沢の各部落に入るようになり、危険の多い冬の湖上は穴釣り人だけが入るようになるのです。
七 裏磐梯のいまも観光僻地
(本章は平成七年当時の裏磐梯が抱えていた生活全般の困りごとについて書かれており、学校に関連した記述はないため、割愛します)
八 おわりに
裏磐梯には多くの分校がありました。地域にある、頼れる文化センターとしての分教場、分校でした。
私も分校に勤務していて、地域の方々と交流の中で、小さな公民館であり医療所だったりしている分校なんだと感じたことがあります。手紙の返事を書いてあげたり、医薬品が学校にあるから傷の手当てをしてほしい、たまには生活上の問題の相談に村人が来られるなど、集落ごとにあった分校の先生を集落の方々は頼りにし、生活を語るなどして生きてこられたのです。
分教場や分校は、集落ごとの相談所でしたし、児童、生徒を教えるだけでなく地域と共に生きて来た歴史があるのです。
単式(一年生から六年生まで一つの教室に学ぶ)から複々式、複式(近接した学年を一つにして学ぶ)学級が一つ一つ消えて行き、今、新しい校舎で学べる環境になった現在を「幸せです」と語る古老の話に、先人と地域の方々と関係した教育機関の方々に感謝し、未来の村づくりに役立つ人材を育ててほしいと考えているのです。
(『峠のみち』第九号増刊「学校発展史」より抄録)